2010年06月30日

貧乏人と金持ちは永遠に調和しない(生きることは苦である)


貧乏人と金持ちは永遠に調和しない(生きることは苦である)

 
●お手伝いさんや召使などから考える
 
自分はここ三〇年他人と直接かかわったことがなかった。かかわる必要がなかった。家族にはそれなりにもめごとがあっても外部の人とかかわらないから自分が恵まれていても責められることもなかった。それが家族の一人が死んだとき外部の人と接することになりいろいろ考えさせられた。前にも書いたけど親戚というほどでもないがそれもみんなうまくいかなかった。ここも結局金の問題だった。金の切れ目が縁の切れ目となっていた。家族の一人が死んで人間の醜い面にもろに接するようになったのだ。お手伝いさんにしても実際は本当のお手伝いさんではない、本当のお手伝いさんは一日勤めるような人であり住み込みのお手伝いさんが本当のお手伝いさんであろう。前は女中と言っていたが差別用語で禁止された。貧乏人と金持ちが調和しないというときなぜなのか?ここに人間に平和がない調和がない根本問題があるからだ。一般的にお手伝いさんとかなると金持ちの家で勤めることが多い、今はそれほどの金持ちでなくても一時間くらい頼む人がいるが本来は金持ちに雇われるのである。するとどうなるのかその経済的差が大きすぎるから問題になるのだ。アメリカでは極端な話、お手伝いさんに盗まれて困るから裸にして仕事する人を頼むとまで広告を出した。これも金持ちの家に来れば欲しいものがありその経済的差が大きすぎるからそうなるのだ。すでにそこには調和はない、お手伝いさんにしてみれば「なぜこんなに金持ちで自分は貧乏なのか?」そういうことが常に思うようになる。これが貧乏人だけで生活していればそうならないのだ。だからつくづくインドのカ-スト制とかがいちがいに悪いとも言えない、江戸時代の階級制も悪いともいえない、逆に極端な経済的差の人が一緒に暮らせばそこにもはや根本的な調和はないのである。別にお手伝いさんだからといって軽蔑したり手荒く扱ったりしなくてもそうである。そもそも経済的差が大きいだけで調和しないのだ。今はお手伝いさんでもいろいろだから昔とは違うが一般的に下積みであり苦労している。そして貧乏だとなるとなぜこの家は金持ちでありこの人の家は楽をして贅沢をしているのだろうかとなる。それを毎日の生活の中で見てしまう立場にあるからどうしても怨嗟の感情が大きくなるのだ。
 
●極端な経済的格差は必ず犯罪の原因
 
お手伝いさんをテ-マにした昔の映画をテレビで見たが貴族の家に召使に雇われた青年がいた。そこに他にも召使が何人かいて共同で仕事していた。そこでそこの貴族の家の人が殺された。あとで犯人は誰だったかわからずじまいにドラマは終わった。でもそこに勤めていた老人の召使の女性がいてその青年はその女性の息子でありその息子はその貴族の家の主人らしい人に生ませられた子供だった。そしてその子供は施設にあづけられたのだ。それでその青年はこの貴族の家に復讐に来たということを暗示した。ただその青年が犯人だったかどうかは言わず終わった。このドラマもまさに極端な経済的差から生まれた恨みをテ-マにしているのだ。「太陽が一杯」というのもこれとにていた。その経済的差が大きすぎる。一方は貧乏人であり一方は大金持ちであり放蕩息子である。その怨嗟が殺人にまでなった。これも極端な経済的差をテ-マにしていたのだ。極端な差があるからわかりやすいから映画化されたのである。


貧乏人と金持ちの問題は人間が生まれて以来あり解決していない、世界的にも問題が起きるのは貧乏な国と金持ちの国があるからでありそこが根本の問題としてある。まだ飢えてやっと生きている人が多いのにその百倍ものいい暮らしをしいる人がいれば世界に戦争がなくても平和は調和は来ないのである。世界的に考えてもそうであるように狭い世界、社会でも貧乏人と金持ちは調和しない、それをわかりやすく示したのが金持ちの召使とか昔なら女中とか今ならお手伝いさんとかである。そして現在も不景気や日本経済が衰退してゆくときこうした社会は金持ちと貧乏人の差を大きくするのだ。それは今までのような金持ちではない、若者はワ-キングプアとなりいくら働いても働いても暮らしが楽にならない、その不満は経済的に恵まれている人たちへ向けられる。公務員は恵まれすぎている、老人は金をもっていて恵まれている、若者は老人のために働かされている奴隷だとか絶えず怨嗟が起こり攻撃される。それが極端になると暴動になるかもしれない、確かに公務員など本当に恵まれている。年金だけで夫婦で五〇万とかもらっていればとをしてもこうした下り坂の経済では怨嗟の対象になるのだ。上り坂の高度成長時代だったらこうはならなかった。自分たちも努力すればマイホ-ムがもてる時代だったからである。今のような時代こうして恵まれている公務員などは相当に多数の貧乏人の怨嗟を意識しないと無頓着でいると非常に危険な状態になってくる。

 
●人間は生きることは苦でり幸福はない
 
なぜか自分は若いときからショ-ペンハウエルを読んでいた。性分的にあっていたからだろう。人間は生きることは苦であり快楽と見えるものははかなく消える。そして苦だけが現実だと何度も書いてあり読んでいた。これは何もショ-ペンハウエルだけが言っていることではない、仏教でも生老病死であり結局は苦のみが現実であり快楽や楽はこの世にないと説いていた。そのことを自分の体験からつくづく実感したのがここ五年間の家族の認知症の介護とか他人とのじかの接触で感じた。そして今年は病気の年だった。胃腸が弱いにしても一週間くらいで直っていたが今回すでに三カ月くらい直っていない、まともに食事ができない、そうなると腹減って普通にうまいと食べていたときは本当に幸福だったなとつくづく思った。健康が幸福の基であることをつくづく感じた。今までは体が弱いにしてもこういうことはなかった。普通に食欲があり食べられることは幸福だったのだと今さらながら感じた。病気の人から見ると健康である人はその人はどうであれ幸福だと思ってしまうのだ。普通に食欲があり食べられるのは幸福だなと思ってしまうのだ。でも別にそんなことが当たり前だと今健康であることに感謝している人はいないのである。寝たきりの人は歩ける人をどれだけうらやましがっているか、自分自身そうなってみないと人間はわからないのである。人間はそもそも健康であることに感謝している人もいないし、自分に満足している人もいない、貧乏人はもちろんそうだが金持ちもそうである。地位ある人も東大出た人も天皇陛下も自分に満足している人などいないのだ。何かしら不満を抱いているのが人間である。才能あるにしてもいくら才能があるといってもあらゆる才能などもてない、ほんのわずかの才能しか与えられていないから満足する人などいないのである。そして最近幸福を平和を感じるのは我を忘れて眠っている時だけだった。なぜならその時嫌なことを病気のことや
いろいろなこと嫌な他人と接することなど忘れてしまっているからだ。どんな人も他人との接触、付き合いで不幸になる要因をかかえるのだ。この世にいい人などいない、苦痛を与えるのが他人であるし今や家族自体がそうなってしまったとき介護かなてしまったとき家族にも平安はなくなる。被害を与える人、極端なのはストカ-とかに苦しめられる人もいるがそういう人がコメントしてきたけどまさにその人はそういう悪質な人から逃れられないのだ。だからその人にとって幸福とはそういう人から逃れそういう人を意識しないとき幸福になる。眠っていて忘れればそうなるのだ。夢でもそういう人、ストカ-につけ回されるならばまたそうならない、結局死ぬことはそれほど不幸でないかもしれない、死ぬ前に人は無意識になる。無意識になることは嫌なことを忘れることだから幸福だとなるのだ。いづれにしろ人間の実体は苦だということを今更ながら実感しているのが現在の自分の状態だった。
この記事へのコメント
>だからその人にとって幸福とはそういう人から逃れそういう人を意識しないとき幸福になる。眠っていて忘れればそうなるのだ。

御陰様で寝付きがよく、夢も見ることなく熟睡できています。
「今日も来たのね〜おやまぁ〜こんな所にも付きとめて付いてきたの?御苦労さま。
で、あんたたちの収入源は?」
という具合に慣れました。突然何処の誰かも分からない集団に付きまとわれて気持ちが悪かったのですが、自分から声もかけられないのですから大人とは判断しておりません。ですから、
気にならなくなりました。気にすると疲れますから。それよりも、彼らの管理者に指導してもらうように言った方が早いです。管理者が同等ですから、管理者の管理者へ。
Posted by たまもと あゆみ at 2010年06月30日 22:22
医療・福祉と宗教は調和しない。
最近、つくずく思います。
Posted by たまもと あゆみ at 2010年06月30日 22:25
上記のコメントに付記となりますが、調和しないと感じた訳は、各々の役割が違うからです。
Posted by たまもと あゆみ at 2010年06月30日 22:45

本当ですか?裁判するとか執拗にこだわっていたようですが・・・・

軽く受け流すようであればストカ-も張り合いをなくすでしょう

ストカ-の挑発にのればストカ-もますます図にのる
何を言ってもしても反応ないとなれば
ストカ-している人もかえってやる気がなくなる

ともかく人間には眠りが忘れる眠りが必要であ
る、

安眠して英気を養ってください
Posted by プログ主(小林) at 2010年06月30日 22:47

医療と宗教は違います
医療は肉体にかかわり
宗教は精神にかかわっている
人間はしかし精神的な存在であり
霊的な存在です
モノののように人を扱えないのです
医者は心身ともにかかわる存在なんです
だから医はは仁術と言った
今では医者が変な人が多いというのは
肉体にかかわり精神的霊的存在としての
人間をみていないからでしょう
心と精神と肉体は切り離せない
一体化して診て調和を図るべきなんです
Posted by プログ主(小林) at 2010年06月30日 22:59
小林様

裁判をすれば、彼らが軌道修正できる道は閉ざされ、長い目で見ると今よりも卑怯な事を集団でやりかねません。弁護士にも相談済みで証拠資料は提出しておりますが、人として残された良心や理性を信じたいと思っております。
裁判で戦うエネルギーを他に使いたく、個人と個人で話をします。真光は姉妹は除外ですが、良心や理性や素直さを取り戻せる人物であろうと信じています。ですので、私が穏やかに話をします。小林様が、色々、アドバイスをし支えて下さったお陰です。
有難うございました。感謝申し上げます。
Posted by たまもと あゆみ at 2010年07月01日 06:25
最近、疑問に思う事があるのです。
人間は何でも神様のせいにしていないか?
自分の意思とはかけ離れた不慮のアクシデントや運命的なものは別として、自分の意思で選択した結果が悪ければ自分の責任だと思うのです。それを、神様や御先祖様や他人に責任転換をし逃げるから、いつまでたっても変われない人間の矛盾を感じています。結局、それだけ、人間は弱くて楽な方へ進みたがるものなのでしょうね。根本的な事を素通りし、楽になるという意味を履き違えているような気がします。
精神の病にカウンセリングや心理療法が必要なのは、肉体以外を看て向き合えるスペシャリストが必要で業務を役割分担しなくては、医療は成り立たないからでしょう。しかし、そこに意図的に宗教は入れるべきではないと思っています。病んだ人なら尚の事、自分の表面的な優しさに惹きつけておいて最終的に押し付けてしまう誘導や洗脳は一種の弱い者苛めのような気がします。
何事も本物を見極める力を導き出せるように、言葉少なく支えるのがプロでしょう。
人間は無力な存在ですから、悪知恵を働かせて近回りするのでなく、常に努力を怠らない事が必要なのだと思います。

>モノののように人を扱えないのです
医者は心身ともにかかわる存在なんです
だから医はは仁術と言った
今では医者が変な人が多いというのは
肉体にかかわり精神的霊的存在としての
人間をみていないからでしょう

おっしゃる通りです。精神的霊的存在をみる術を間違えているからだとも思います。
医療や福祉を目指した人は、元々献身的で優しかったはずなのですが、時間や自分に余裕を無くしてしまったのでしょう。でも、理性や良心を取り戻す瞬間はあると思うのです。継続しないのは、自分にできない事は認め、高ぶらず、知ったかぶりし、自己練磨する事が疎かになっているからだとも思います。逃れる事が習慣になっているのでしょう。
自分に余裕がなく自分をコントロールする理性に欠けた人の口は罪を作り争う為にあるのかもしれませんね。癒す為にあって欲しいと願っています。己を知らない者は他人さえ知る事はできないでしょう。私は、人を看る仕事ですから、常に自分を見失わない様に努力しております。小林様は、とても大きな器で受け止めて小林様独自の説得力あるお言葉を下さいました。やっと、平常心や前進する力を取り戻す事ができました。
それから、ストーカー達の事を気にしだすと、やらねばならない目の前の事に集中できず、自分の精神が攻撃的になります。それでは、とても愚かな事で共倒れとなります。
私も心と精神と肉体が一体化するように、他人に巻き込まれないで自分を大事にしてあげたいと思います。自分自身の信念をもって。
精神科に勤めた経験は、公私共に貴重なベースとなりました。
Posted by たまもと あゆみ at 2010年07月01日 07:18
コメントできない、システムエラ-
Posted by プログ主(小林) at 2010年07月01日 22:33
>人間は何でも神様のせいにしていないか?

そもそも神様は人間のエゴ(自我)欲を満たすためのものとして神様に頼る
だからその神様は何でもいい、苦しいときの神頼りですから何でもいいわけです
こっちの神様が効能がないからやめて次に別な神様に頼る
そんな宗教を渡り歩く人が結構多い、自分のせいでも神様のせいにしている
一般的に宗教団体では誰が来ようがその人自身の責任は問いません
「あなたが悪いんです、あなたのせいです」とか言わないです
悪いのは神様だ、社会だとなれば楽ですから・・・・
こういう人たちはまた社会へ不満を募らせ攻撃的になりやすいんです
こういう団体はだから絶えず敵を求めて団結して攻撃してくるんですよ
明らかに自分のせい、責任が必ず何かしらあるはずですから・・・・

Posted by プログ主(小林) at 2010年07月01日 22:35
了解です。
Posted by たまもと あゆみ at 2010年07月01日 22:36
たまもと あゆみ at 2010年07月01日 22:36
「了解です」は、下記のコメントに対する返信です。タイムラグした。

>コメントできない、システムエラ-

Posted by たまもと あゆみ at 2010年07月01日 22:39

>そこに意図的に宗教は入れるべきではないと
>思っています。病んだ人なら尚の事、自分の表
>面的な優しさに惹きつけておいて最終的に押し
>付けてしまう誘導や洗脳は一種の弱い者苛
>めのような気がします。

宗教団体とか医療関係者や福祉関係者は病んだ人や弱い人とかかわることが多いです。だからどうしても傲慢になってしまう、弱い人に同情するより弱い人を利用する、自分たちの勢力を拡大するために利用するのが目的である。だから生活保護などでもそうした団体はその人たちから金をまきあげる、それが団体の収入になるのです、宗教福祉関係は本当に偽善が多くなるんです、「神は心を見ている」というときその人の成していることを見ていない、結局偽善が多くなるからです、「右の手のしていることを左の手に知らせるな-マタイ6-3」とかあるし善行を隠せ誇るなと言っています。もちろん人間は金でもやらない限り何ももらえないなら何もしないです。つくづくただより高いものはないというのを実感しました。苦しいとき確かに多少助けてもらったことは確かですがその報酬が余りにも高いものとなってしまった。多額の借金を申し込まれても断れない、ちょっとでも助けてもらった報酬が余りにも高すぎた結果となってしまった。
人は決して人をただでは助けません、これは宗教団体でも同じです、ただでは援助しないことを胆に命じることです。その見返りはかえって大きなものになるのです。

>医療や福祉を目指した人は、元々献身的で優し
>かったはずなのですが、時間や自分に余裕>を無>くしてしまったのでしょう。

人間はエゴ(自我)を自分の欲を滅して相手に尽くすということ自体不可能に近い、宗教はそれを要求していますがそんなことを実行できる人はまれでしょう。 元々献身的で優しかったはずなのですが・・・・現実に実際にそれを実行するとなるとできなかったということでしょう。
そもそも宗教団体自体が巨大なエゴ(自我欲)の拡大化したものの集まりです。宗教の名のもとに自分たちの欲を拡大しようとしているのですから宗教そのものがそこにあるわけがないです

人間はその人の宗教を見てその人がどういう人なのか判断できるでしょうか?日本では大方仏教徒になっていますがほとんど葬式宗教であり仏道を修行している人はまれでしょう。
イスラム教でもキリスト教でも地球上をおおっている、ではその人たちがそれぞれ神の道を実践していますか?そこに犯罪者も普通にいますしキリスト教国家でも戦争をします、「汝の敵を愛せよ」ということを実践している人も国家もないです、その人の宗教から人をみることはできないでしょう。
Posted by プログ主(小林) at 2010年07月01日 22:45
>つくづくただより高いものはないというのを実感しました。
>人は決して人をただでは助けません、これは宗教団体でも同じです、ただでは援助しないことを胆に命じることです。その見返りはかえって大きなものになるのです。

その見返りが恐ろしいです。見返りを直接自分に求めず、自分の大事な人へ求める場合もありますから視野を広めて注意しなければいけませんね。恐ろしいです。気を付けます。

>人間はその人の宗教を見てその人がどういう人なのか判断できるでしょうか?

全く分かりません。裏表の裏が怖いです。

>イスラム教でもキリスト教でも地球上をおおっている、ではその人たちがそれぞれ神の道を実践していますか?

矛盾だらけです。神の道を実践するには迫害されても、非難されても、やりかえさない強い信念と覚悟が必要で、甘い考えでは実践不可能です。癒しや自己満足を求めるのは、ただの興味本位であり、自分都合だけで良いとこ取りする甘えがあるようにも思えます。見えないものを信じ、実践する事の難しさを認識しました。
その人の車や装飾品や社会的地位等の所有物から、その人を判断できないように、宗教からも判断出来ませんね。
Posted by たまもと あゆみ at 2010年07月02日 00:37
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