二本の農家の庭の木陰かな
電線に一雨ぬれて夏燕
雨ぬれて紫菖蒲日陰かな
猫一匹日陰に動かず隠れけり
日影と日陰は違っていた。今日は曇り-晴れ-雨だった。今は雨がふってまた涼しい。
「二本の農家の庭の木陰かな」というとき単純だけどやはり写生だから一見そう見えても深いものがある場合がでてくる。実際に双子のような樹がある家である。一本だけではない、二本あるということで農家の庭の広さと余裕を感じるのだ。ここからいろいろイメ-ジを拡大できる。
一本だけではない二本あるということは人に例えれば支える人が二人いたりすれば介護でも楽だろうなとイメ-ジする。大家族だったら一本ではない二本も三本も樹があれば人がいれば楽だとイメ-ジするのだ。俳句は写生であるがそこからいろいろイメ-ジできる。
「雷鳴やまじかに赤し百合の花」昨日の句もいろいろ解釈はできる。まじかに赤しというとき地元で生活するというとき都会で仕事する場合とはかなり違ってくる。狭いから信用が第一になる。仕事するにも墓でももっと安く良く作れたのなと業者が言うとき、それはすでに四〇年前とかの話であるがその墓石を作った人はまだ生きているし商売もしている。そんな昔のことまでさかのぼって責任を問われるのも田舎だとなる。都会だったらそんなこともう責任が問いようがないのだ。日本人は狭い村で生活してきたから狭い村が一つの世界となっていた。これだけ狭い世界だと相手のこともしりぬいているし悪いことは村のなかではしにくいし暴利をむさぼるようなこともできない、株とかいろいろ暴利をむさぼるのは常に都会なのである。リホ-ム業者でも外からきた人ならいい加減にやって多く金をとってもあとは知らないですむ。ところが地元だとそこに住んでいるのだから悪い評判がたつと仕事もできない、あとあとまでたたることになる。
日本で犯罪が少なかったのはもともと狭い範囲の村で生きていたからそこでは犯罪はしにくい、一旦犯罪を犯したら村から追放されてしまうからである。つまりいつもまじかに見られている。
赤い百合の花のように偽ることができない、それはいい面であり窮屈だともなる。
いづれにしろ田舎では常にまじかに見られている、監視社会にもなる。沖縄の島で同じ場所にいるから怪しいと警察に通報された。そんなことで警察に通報されるのかと驚いた。よそ者は土地の人にとってすぐわかる。ある小さな島になるとじろじろ見られている。田舎では人を見ていないようで見ているのだ。そういうところでは犯罪はしにくいのである。
120万人の治安が24人の与力、同心で守れたか。
http://www.eco-g.co.jp/life.html
実際の今の警官にあたるものがこれしかいないということに驚く、あとは自警団とか町の人がボランティアで治安を守り警察の役割をしていたのである。犯罪も今と比べると驚くほど少ない、江戸でも村のように犯罪を犯しにくい世界だったのである。日本が外国と比べて今でも犯罪が非常に少ないのはこうした村社会の相互監視社会だったからである。江戸でも常に人はまじかで見られ存在だったから犯罪を犯しにくいのである。