水車から偲ぶ昔(俳句−詩など)

水はじき水車涼しき昔かな
私たちが今飲んでいるような清酒ができたのは、江戸時代の中期以降である。その理由は精米技術の進歩で、六甲山の急流を利用した水車により、精米率の高い精白米が手に入るようになったからである。「灘の酒」は、六甲の急流と技術革新ゆえであったのだ。もちろん米と水がいいことも条件で、灘にはそれらもそろっていた。江戸周辺でも酒を造っていたが、いい酒が市場に出るようになると、江戸ではほとんど灘の酒一色になったようだ。
水車稼ぎ、または水車稼ぎ同士、これより多くの水を取りたいがため対立することがあった。水車は主に雑穀の脱穀・製粉作業に使われていた。さらに上流部では製材のための動力として、また織物が盛んな地域では、燃糸のための動力として使われていた。水車の動力利用は入間川の流域の特徴と言えるだろう。人々はそれぞれ、既得権益を守るために対立しながら、しかしどこかで折り合いをつけ、共存共栄を図ってきたことがうかがえる。
http://www2.arajo.ktr.mlit.go.jp/konjyaku/03.html
18世紀には菜種油の製造が近畿、特に西宮を中心とする阪神間で盛んになり、この菜種油の大量製造とその販売で大阪の繁栄の基礎が築かれた。これには水車による搾油技術の進歩が大いにあずかっている。
明治十七年に「水車印数増加願」という文書が神奈川県令に出されていました。これによると長柄村芳ヶ久保の地名と水車場一ヶ所との記述があり、願人の名前もみられます。地名や添付された地図から、おそらく同じ水車だと思われますが、戦前には「わたや」という屋号のお宅が、綿打ち用に使用していたといいます。
http://www.hayama-kuretake.net/column/mizu-annai/mizu-annai.htm
それまで精米、製粉に限られていた水車営業が、煙草製造・ガラスみがき・薬種精製・活版墨汁練りと、農業から離れ、小規模ながら工場としての動きを始めたのである。もっとも、この動きは、市街地に近い目黒川流域だけで、呑川流域では、あいかわらず精米や製粉を行っていた。
山田貞策は、1869年岐阜県養老町の代々庄屋を勤めた大農家に生まれます。農事改良振興に尽力し、1898年に出崎栄太郎に水車式蒸気機関排水機を開発させます。この排水機を利用して、1906年〜1928年まで、福島県相馬郡八沢浦で干拓事業を実施します。荒地を美田とし、耕地面積350haの耕作地を作り出し多量の農業生産物の収穫ができるようにしました。1935年に山田神社が磯ノ上公園に建立されましたが、現在では八沢浦干拓事務所脇に遍座してます。
水車の用途は実際は多岐にわたっていた。水車は昔の小さな工場であった。水車から近代の工場へと技術は変化したのだ。南相馬氏の鹿島区の八沢浦裏干拓にも水車が応用されていたのだから水車は明治に入っても最新の技術力だったのである。風車も同じである。風車のなかはからくり屋敷みたいであり工場なのである。ここから造船技術も発達してオランダの海洋貿易国家の繁栄があった。オランダがほかに木靴で有名だというとき木靴は日本の下駄でもあったのだ。技術は何か共通性があり他への応用が必ずあるのだ。水車でも風車でも今からみると何か牧歌的なもの片隅にある忘れられたなつかしいもののように思っているが実際はそこは昔の工場であり活きていた。過去を偲ぶとき現代から想像するから何か必ず錯覚するのだ。城だってそうである。江戸時代の人が実生活で見ていた、見上げていた城の感覚は観光として見る城とは違っていた。城は当時の人にとっては怖いものだったかもしれない、警察署のようなものか何か畏怖させるものだった。戦前までの天皇と今の天皇とはあまりにも違うように畏怖させるものは違っていたのだ。水車が活きていたからことわざも生まれる。
精出せば氷る暇(間も)なき水車(せいだせばこおるまもなきみずぐるま):【意味】毎日毎日の務めに孜々として励んでいれば、人間というのは迷い悩んで絶望などしている暇もなく、そうこうするうちどうにか生きていくものだ
これもなんか今の自分を象徴している。水車のように介護のために動いている動かされているし問題も解決しないがただ動いている他ないということになる。自分のテ−マである過去を歴史をいかに偲べるかはいかにその時代に活きた世界を再現できるかなのだ。ただこれは必ず今の時代から見るのだから水車一つにしても当時の人と違った用のなくなった水車を見てしまうのである。
山桜散るや小川の水車 智月
http://www.aozora.gr.jp/cards/000606/files/44910_22425.html
雪解富士水車しぶきを宙にあげ 榎本虎山
水車 俳句で調べてもインタ−ネットにいい俳句がなかった。これが山桜と水車であっていた。雪解水は勢い良く水量豊かに流れるから春とともに水の流れが増してゆくことで季節感がでている。水車は車川とかの地名がここにもあるように地名化しているしまた水車は町の通りに必ずあった。精米屋と水車が一緒になっていた。水車は常に身近なものだった。何事一旦過去のものになるとその意味や活きていた時の感覚がわからなくなる。技術自体がみなそうなのである。歩いて旅していたという感覚が全くわからなくなったと同じなのである。この根本的なことから過去を再現することが困難になったのだ。馬車で運ぶ感覚、時間の流と自動車で運ぶ感覚の相違はあまりに大きすぎるからである。
立原道造
村中でたつたひとつの水車小屋は
その青い葡萄棚の下に鶏の家族をあそばせた
うたひながら ゆるやかに
或るときは山羊の啼き声にも節をあはせ
まはつてばかりゐる水車を
僕はたびたび見に行つた ないしよで
村の人たちは崩れかゝつたこの家を忘れ
旅人たちは誰も気がつかないやうに
さうすりやこれは僕の水車小屋になるだらう
水ぐるま 近きひびきにすこしゆれ すこしゆれいる こでまりの花
木下利玄
過去はこうして回想されているが当時は実用的な工場でありあまり牧歌的な風景として見ていなかったかもしれない、何か大きな技術であり生活を動かすものであった。その役目が終わると回想される詩となってしまう。ただ水車とは戦前まで活きていたからそんなに昔のものではなかったのだ。今でも水車のことを知っている老人がいるだろう。水車は自然の流の水を利用するのだから環境とマッチした技術だったし風車もそうだった。風車も牧歌的に見てしまうがあれも中は本当に工場だったのである。オランダは風車で技術革新をして人工的国家国土を作りあげた。風車は中東にあったものをまねたのであり元は中東だった。中東は砂漠だから風が吹くから風車の技術が発達したことは推測できる。ともかく風車は技術の象徴だった。技術的象徴となるものは常にあった。それがいづれは過去となり歴史となり世界遺産となる。富岡の煉瓦の製糸工場が世界遺産になるとか原町の無線塔も技術的象徴として原町が近代化されるときそびえ立っていたのである。無線塔は近代化の象徴だったのである。
さらに風車のすぐれた技術は、造船にも応用され、やがて17世紀、オランダは世界の海を制して黄金時代を迎えます。キンデルダイクののどかな風車群の絶景は、ただ美しいだけにとどまらず、オランダが国土を確保・拡大し、大繁栄を遂げた歴史の象徴として、世界遺産に登録されたのです。
晩秋や風車の古りて村一つ
実際電車からみた風車は風格あるものだった。村の長老のようにどっしりとして風格があった。水車もまた当時の人には頼もしいものであった。技術も戦艦大和のようにゼロ線のように時代の粋を集め総力で作り出されるものがあった。蕪村の句の「絶頂の城頼もしき若葉かな」というのは石垣の技術に対しての頼もしさだったように常に技術を頼りとする人間の歴史がそこにあったのだ。そして時代と共に技術も過去のものとなる。
曲家に水車のまわり館岩の夏の日暮れぬ昔偲びつ
老鶯や昔の水車回るかな
館岩にあった水車小屋は小さい、藁葺き屋根の里は残っているがあのように小さいと水車の当時の効用はちっぽけなものに見えてしまう。あの山の部落時代小さいからそうなる。平地が水田が広ければ水車も大きなものとなる。浮世絵に描かれた水車は大きいからだ。
藁葺の農家にいかにも一本古き松
夏草しげる村の辻見守る道祖神も古りぬ
時の止まりしごとく昔の道に旅人を見守り
小さな昔のままの水車 小川に洗い場 半鐘もあり
旧家の前水張りし田に菜の花映ゆるのどけさ
今も変わらず湧き水のある一村の暮らし
桜の花は散りそこに八重桜の花は咲くかな
湧き水に一村の暮らし八重桜
これは信州の古い村の光景である。なかなか大きな水車は今は残っていないからわかりにくいのだ。
水車のキ-ワ-ドでいいものがかなりでてくる。インタ−ネットは漠然と探していてはいいものにあたらない、具体的なものから探すといいものにあたる。インタ−ネットは常に編集して読まないと効用がなくなる。キ-ワ-ドから調べるから例えば老鶯と調べたら秀句を一つ発見した。つまり老鶯というキ-ワ-ドで知的構築を計るのがインタ−ネットなのだ。今回は水車のキ-ワ-ドであったがこれは風車とも結びついているし知的構築は必ずリンクするものなのである。リンクして広がっていく知識の探求がインタ−ネットの利用方法なのである。だからかなり根気よく調べる必要がある。情報の量が厚みが増せば書くことも厚みが増すからである。