雷鳴や海の方へと鳴りひびく
雷鳴やまじかに赤し百合の花
夕立のあとのすがしさ百合赤し
雷鳴や街の中に鳴く雲雀かな
のんびりとでで虫いでぬ夕べかな
激しい雷が何度も今日は鳴った。浜通りでは雷は山から海の方へ鳴りひびく、海から雷が鳴ることはめったにない、海からは風が吹いてくる。夏はやはり海から吹いてくる風が気持ちいい、波立海岸や四倉では特に海の彼方から吹いてくる風を肌で感じた。雷鳴のなかで雲雀が鳴き赤い百合が何輪か咲いた。その赤い百合をまじかに見て雷がなりひびき雨が何度かふった。
いかにも夏らしい、そのあと雨が上がりのろのろとでんでん虫が歩いていた。
今年の前半戦は終わった。今年は電動自転車で近くでも坂などを上れたから満足だった。一番の圧巻は丸森から松坂峠を越えて梁川に出て阿武隈川を下ってきたことだった。ここのル-トは醍醐味があった。それから亘理から阿武隈川を下り海に出るコ-スも変化があった。近くでもまだ地理がよくわからないことがある。電車だけではわからないところがかなりあるからだ。ただ
今年は病気の年だった。胃腸の病気やら体がまともでなくなった。それで激しい運動をすると必ず体が変調を来して苦しかった。それをのりこえてこれだけ動いたことは満足だった。
癌になっても富士山を登山した人たちがいた。苦しいけどその満足は大きいし悔いは残らない。やはり人間長生きするだけではない・・・何かをする・・何かを成し遂げることが満足感をもたらす、こうしてプログで作品化することも満足感をもたらす、ただだらだらと長生きするだけでは人生の充足感はなくなる。
ともかくプログに書き続けたということは我ながら感心する。プログでも毎日それなりのものを書くとなるとそれなりの労力が必要なのである。他の人でも一記事を書くのに二三時間とかかかるのだ。だから毎日書きつづけることは相当負担がかかるのだ。報酬はないけど創作することはそれ自体楽しいからやっている。人間は生きがいを求めるものである。生きがいと報酬があっている人はなかなかいないだろう。今の時代生きがいある仕事ができる人は少ないのだ。
大工さん庭師の人は設計した門を見せてくれたがそれを説明するとき生き生きしている。自分で設計してその通りに作ることに喜びを見出しているのだ。それははたからみていても気持ちいいのである。つくづくその人にあった職についている人がいるものだと感心する。普通こんな仕事やりたくないやりたくない金のためだしかたないと言うのが大勢である。そこに現代が鬱病時代になっている大きな原因があるのだ。
自分はこれだけ自由に旅したし満足である。あとは旅の経験などを作品化することが仕事である。今年の前半はずいぶん我ながら俳句でも短歌でも詩でもいろいろ書いたものだと思う。
正直家事に追われる面があったがそれでもその暇のなかでこれだけの書くことができたのだから満足である。介護が負担になりすぎたらプログさえ書くことができなくなる。約この五年間は家事と創作を両立してきた。これは結構大変なことだった。人間は家事などたいしたことがないというかもしれないけど二つのものを両立することはむずかしいのだ。家事は買い物だけで今は結構大変だし一つの料理を作るのに手間なんだなとつくづく感じた。料理というのは簡単な料理でも時間がとられることがわかったから料理はしていなかった。今思うと外で料理すれば金さえ払えば料理が自動的に出てくる感じだ実際は一人分の料理を出すのも手間がかかることを自分でやってみてわかった。料理を作り後片付けなどしていたら他に何もできなくなりうる。現実やはり毎日家事に追われ創作していたからである。