2010年06月18日

四倉の詩(四倉の魅力)

四倉の詩(四倉の魅力)

四倉や磐城へと 砂浜広く
波うちよせて 浜風吹きぬ
港には大漁の旗ひるがえり
海の男の心意気、波そ高鳴る


浜街道残りし三本の松影涼し
海の近きやよする白波
草深く埋もれし墓のあわれ
四倉駅の日陰に電車待つかな


昔銅山に働く人や線路あり
ここに集まり埋もれ墓かな
江戸時代よりの人もあれ
一族ここに埋もれけるかな


浜の風さらに吹きぬれ
海広く心も広くなりぬれ
遠き海に船の見えつつ
浜風そよぎ電車は去りぬ



ある市町村がいいというとき、第一に自然条件に左右されているのだ。四倉もそうだった。あれだけの広い砂浜はなくなっている。みんな防波堤になっているからだ。そしてその広い海に接して六号線があり常磐線があり海の街となっている。海の風や波の音がひびいてくる距離にある。浜通りと言っても街から宇はまでは遠いところが多いのだ。広い砂浜もない。まさに浜街道を象徴していたのが四倉だった。昔の名残りの松並木の三本の松が残っていたのも歴史を示しているからいい。海に面していても街が巨大だと自然の良さは失われる。四倉はまだ小さな町である。騒がしくなく静かでもある。不思議だったのは夏草におおわれた墓地が駅の近くにあり墓地に興味をもっていたから何かまだ墓地が目立つような土地柄でもあった。墓などいらないというのもあるが墓はやはり街を構成するものである。先祖が街の中に一緒に生活している感じになるのが墓地である。先祖の墓が生きている人を見ているという感じになる。

四倉には八茎銅山があった。ここは江戸時代からのものであり加賀国から一族が移住して死んだ墓石が残っているとインタ-ネットで発見した。
http://loveiwaki.cocolog-nifty.com/duketogo/2007/02/post_f57a.html


墓のことを相馬藩内でいろいろ書いてきたが墓で江戸時代のものが残っていれば価値がある。明治以降だと興味が薄れるのだ。

電車待つホ-ムの近く草深く墓地のありしや四倉の駅
墓地はやはりそれなりに過去を意識させるのだ。現代だけをみるのではない過去も現代の中にあるべきである。ただ墓でも南無阿弥陀仏とかだけになるとみな同じでつまらないと感じる場合がある。家の歴史や個人の歴史が無視されるかもしれない、家の否定が宗教にあったからやむをえないという面はあった。
海の街で一番印象的なのは函館である。両側は海になっていて波がよせてくるような地形は世界でもめずらしいだろう。函館はだから特別であり地形が街を作ったのである。他にも街の中に自然が溶け込んでいる都市は魅力がある。盛岡は岩手山が常に真正面に聳え北上川と中津川が街中を流れている。街の中に川が生きている。街の脇を流れているのではない、街中を中心を川が流れて街が形成されているのだ。仙台も広瀬川があるが街中を流れているという感じがしない、盛岡は二つの川が街中を流れとけこんでいるのだ。これも自然が活きている都市だから魅力がある。やはり自然が魅力を形成するのであり人工物ではない、そして水の流れている、水辺の所は特に夏になると涼しくて気持ちいいのである。水が風を涼しくすることもあり気持ちいいのである。庭でも水がある庭は涼しくなるのだ。
いづれにしろ浜通りと言っても海と一体化した街は四倉くらいしかない、街に絶えず海の風と波の音がひびいている街はないのだ。四倉は自然条件に恵まれてそうなった。あとは太平洋岸が単調なのである。
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