2010年06月17日

相馬から波立海岸、四倉まで(夏の俳句短歌十句十首)

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相馬から波立海岸、四倉まで(夏の俳句短歌十句十首)

 
黄勝負や久々に待つ電車かな

夏草や高校生乗る駅舎かな

夏菊の二色車窓に過ぎさりぬ

夏菊に陽射しの強く若きかな

川二つ涼しさ呼ぶや浪江かな

夏草や夜の森過ぎて磐城かな

夏草や夜ノ森過ぐも江戸遠し

国境越えて涼しや浜の風

涼しさや波打ち寄せて磯の穴

涼しさや小魚石に隠るかな

夏の海太古の夢や化石かな

磐城へと波打ちひびき夏雲雀

四倉やしきり飛び交う夏燕

街道や石に松影涼しかな



波立にハマヒルガオや波のたちしばし休めるレストランかな

岩礁に我が立ちをればはるかなる沖よりの風涼しかりけり

波立や陽射しの強く照りにつつ照葉樹林の残る磯かな

磐城へと海は広がる白波の高鳴りよせて夏は来たりぬ

四倉や浜風吹いて三本の松の影伸ぶ街道涼し

街道の松影静か浜風の四倉に吹き電車に去りぬ

四倉に電車を待つや長々と日影に数人夏の午後下がり

四倉や日影静かに我が待ちぬ電車急がず来るがよしも

夏草に墓の埋もれて波のよす四倉の街我が通りけり

車窓よリ沖に船見え樹々の葉の風にしきりにゆれさやぐかも

夏の川海にそぞきて船の見え木立の緑に風さやぐかも

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今日は久しぶりで電車にのって久之浜から波立海岸の磯で遊び四倉から折り畳み自転車で帰ってきた。一駅の間しか走らないから疲れなかった。この暑いさなか走ったら今胃腸を悪くしているからまた病気になってしまう。このくらいだったら体力が落ちてまだ行ける。この暑いさなか歩いている退職者を考えたら信じられない、相馬までだって歩けない、退職者はやはり自由がなかったからあういう旅をしたい人がでてくる。時間がなかったぶん存分に時間をかけた旅行をしたいというのもわかるがあれだけは想像もつかない旅である。

浜通りの方はまだ草深いということがある。東北本線よりはかなり草深い、景色でも大野とか広野とかあるが本当にそこは野とか森が広がっていたのだ。そこは未開の地であり明治以降に本格的に開墾して人がすみついたのである。夜ノ森は余の森、相馬藩の領有する余の森だと殿様が言ったからである。つまり森と野で磐城藩との境を成していたのである。小良が浜もおらがはまだと争ったからその名がついた。これは他からきた人は意識しない、今はどこでもここが何藩でその境だと電車の旅で意識する人はいない、いや意識できないのだ。関所もなにもないし藩の境を意識できない、ということは歴史も意識しにくいのである。 現代の旅は便利でもいろいろなことが看過されて印象に残らない旅になってしまうのである。広野-大野かといってもここが相馬藩の時代に本当に薄暗い森が覆い広い野だったということを意識する人はいないのである。そのことはすでに旅が浅薄なものとなり歴史も無視された印象希薄な旅となるのである。関所があれば不便でもここから相馬藩に入る、磐城藩に入ると意識せざるをえないから歴史も意識するのである。


ともかく波立海岸は福島県では唯一磯がある海であり貴重である。磯遊びができる。でも今回はいろんな磯に集る生き物を見なかった。春には海牛を見たが今回は小さな魚と小さな蟹だった。他はなにも見えなかった。千葉県から熱帯魚を探しに毎年きているという青年がいた。熱帯魚がここにきているし珊瑚もある。小さいにしろ何匹か熱帯魚を見たのである。黒潮に乗ってここまで来ていたのである。珊瑚の化石は鹿島などからも発見されているから太古は暑かったからそうなっている。四倉から電車で帰ってきて気づいたことは海が思ったより近いから海風が吹くし砂浜も広々として白波が寄せるから気持ちいい、あそこなら磯遊びできるし砂浜でも遊べる、四倉から以北はもはや大きな砂浜はない、砂浜は防波堤になり死んでいる。あそこだけは大きな砂浜があるし街が海に近いから海の街なことがわかった。磐城市街は海からかなり遠いから海の街とはならない、新地駅は海に一番近いが磯もないし大きな砂浜もないからあまり立ち寄る人がいないのである。四倉は鉄道と海と国道が一体化しているから海を活かすことができる。そして今回発見したのが三本の浜街道の松だった。駅の近くにありいい松だと思った。浜街道というとき浜が海が見えればそう思うが海が見えるところは少ない、海が近いのは波立海岸と四倉でありあそこが本当に浜街道らしい街だったのである。

波立海岸には照葉樹林が残っている。実際に暑い日は南国的な葉に照っていた。照葉樹林文化圏の考察もあり南国的なものとして磐城辺りまでは植生が残っている。鹿島区の海老浜が丸葉車輪梅の何限としているがあれも照葉樹林帯の植物である。ただ不思議なのは磐城から万葉集の真野の草原と歌われた鹿島地域との距離感がポイントなのである。磐城からさらに北上するとかなり草深い地域となる。電車でもまだそうした森や野の感覚が今でもイメ-ジできる。

磐城から北上した真野の草原は本当に大和政権にとっては辺境だったのである。桜井古墳が原町にあり亘理までは大きな古墳はない、あとは中通りから文化が北上していった。
真野の草原(かやはら)は実際は地名だったということを書いてきたが以前として謎なのである。それはあくまでも仮説であり専門の学者の意見も聞いていない、でもどうしても辺境の真野の草原に憧れるようなことをするだろうかというのが疑問だった。その草原が萱の原としたら荒寥としたところでありそんな所を面影に見たりするものだろうかというのが根本的な疑問だったのである。

今回は暑くても無理しなかったから楽だった。こういう旅ならまだできる。自転車で長距離なると苦しくなった。電動自転車でも坂は楽にしても相当やはり体力が消耗したのとやはり体が病気になったことでそうなった。旅は別に楽をしてでもできる。老人だったらクル-ズなんか向いている。あれは80才の人でも乗っていたり障害者でもできるだろう。ともかく電車の旅が一番長かったから自分の旅は電車であり電車にのると生き返ったような気持ちになる。やはり同じ線路でも季節が変われば気持ちも変わるからあきないのである。
 
 四倉の詩(四倉の魅力)
http://musubu.sblo.jp/article/39015557.html
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