2007年05月04日

春の塩の道をたどる(二本松までの絵巻物の詩)





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春の塩の道をたどる
(二本松までの絵巻物の詩)


春の塩の道

牛の啼き
鶯の鳴き
飯館村の
山陰の道
日のさし
温かきや
黙せる石
患いなく
耕しの婦
辛夷咲き
良き日和
一本の松
そに寄り
旅人行く
祈る像は
塩の道に
春草生い
古りにし
恋の恨み
地蔵にそ
残る伝い
春の愁い
かなたや
山木屋へ
三春へと
二本松へ
道分かれ
はるかや
山間の里
蛙鳴きつ
誰か棲む
田に蛙石
枝垂桜に
一村古り
合戦場跡
伊達政宗
勇名残す
二本松城
我が至り
あわれや
宴も終え
花散る跡
霞け城や
夕日さし
余花散る
本丸跡の
高きかな
相馬の方
三春の方
見晴らし
残雪の峰
安達太良
夕日映え
二本松の
昔の酒屋
千恵子や
哀しきや
安達太良
影覆いぬ


・・・・・・・・・・・・・・・・・・
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恋の悩みを背負わされて肩をそがれた地蔵尊

旅の若い石屋が真福寺に頼まれ地蔵を作ることになった。峠の麓の宿に泊まり頂上近くの仕事場で石を彫った。峠の茶屋に美しい娘がいて恋におちいった。彫り終えたら別れねばならぬと石屋は不安になりはんばできあがった地蔵の肩をそぎおとした。これは「きっつぉこね地蔵」と呼ばれた。「きりそこね」という意味である

これは実際にあったことだろう。こういうことはどこでもあるからだ。技術者は遠くから呼ばれる場合がある。やはり地蔵彫るとなるとそれなりに腕がよくないと作れないからだろう。そして今でも誰かが両親でも離婚したりどこかでもめごとがあれば必ず回りのものがとばっちりを受けるのだ。喧嘩しても回りのものがとばっちりをうける。暴力団の抗争でもそうだし戦争でもどこかの国と国が争うととばっちりを受ける。それがこの世の中だからこの世にあるかぎり平和であることはありえない、一人だけ平和でも回りが平和でないからそうなるのだ。そして喧嘩とかもめごとはなくなることはないからこうした伝説は今の話しでもあるのだ。

二本松までの塩の道は情緒ある道である。これは詩にしたように絵巻物のように旅する必要があるのだ。蛙石というのが本当に途中にあったのも面白い。一連のものとして絵巻物にするとわかりやすい、でも細かいのは見逃されているしわかりにくいのだ。車だと途中をぬかすし人間のペ−スがなくなるから昔を知る旅にならないのだ。歩くのが一番いいのだが時間がかかりすぎるから自転車が一番いいのである。自転車でも相当遠いのである。奥の細道は昔だったら魅力あるが今は阿武隈高原のようなあまり人の通らない道が奥の細道なのだ。この塩の道は塩は生活に不可欠だから実用の道として長く使われていた。道中安全を祈る地蔵も当時の人にはかなり頼もしいものとしてあったし今でも時間がとまったように地蔵だけは残り祈りつづけている。実際山木屋に出る山の上の道の観音像は塩の道の目印しとしてなんとか残っている。時代は「天和」とあり確かに江戸時代のものである。天和(1681-1684)だから実に古い。寄進した人の名前が裏に彫られてあった。このくらい古いものはめったにない、この辺では幕末期とあとは明治時代のがほとんどだからだ。

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相馬から二本松へ(春の塩の道すじ)
http://musubu.sblo.jp/article/3869298.html
・・・・・・・・・・
春−三春へ
http://www.musubu.jp/trymiharu2.htm
阿武隈の魅力は道にある
http://www.musubu.jp/abukumichimiryoku.htm
阿武隈の歴史の道(相馬から川俣へ)
http://www.musubu.jp/somaabukumarekishimichi1.htm

posted by 老鶯 at 16:10| Comment(0) | TrackBack(0) | 飯館村
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