

どっしりと大石二つ蕗の薹
五六つ坂越えて来ぬ燕飛ぶ
目印しや祈る像二つ春の草
さえづりや国境の峠越え行きぬ
山里に街の遠しや蛙鳴く
山吹や城を守れる少年隊
宴終わり余花散る夕べ霞が城
葉桜や石垣残る城の門
本丸に立つや城壁に青葉かな
三分ほど夜とまる駅蛙鳴く
山陰にわずらいなくも石一つ春の日影にあたたまりをり
残雪の安達太良光り坂越えて我は来たりぬ芽吹く樹々かも
沢音に涼しき木陰ひそかにもキクザキイチゲゆく人まれに
バスで飯館に行き飯樋 を通り塩の道を山木屋の十字路に出て二本松に向かった。飯樋 をぬけるのにかなり遠かった。なんか今はゆっくりしていらもないせかされるから落ち着かないのだ。途中祈る像が二つほどあった。あの塩の道にある像はいい、本当になぜか祈ってくれている、今でも祈ってくれる感じがする。道中の安全を祈ってくれている。あういうの本当に生きている。作られたものでもない、何か極自然なものとしてある。人もあまり通らない所にひっそりとあることでも生きている。
あまりにも人のゆく所は信仰の場でも汚れた場所である。そこは人間の欲でうずまいている。悪い気が漂っている。何度も言うまず宗教団体はほとんどそういう欲念で満ちている場所である。つくづくあういう所に宗教を求めていくということは異常である。欲念で満ちているから必ず汚れるし悪念がそこから伝わってくる異常な場所である。なぜそんなところに求めて人が集まるのか?結局ネオン街とか欲望の捌け口が必要なように宗教団体もそれと同じなのである。自然のなかでは人は清められるが人が集まるところは必ず俗世的になってしまうのだ。これは避けられないことなのだ。人が多数集まるところは必然的に欲念が集まり汚れる場所なのである。
二本松の霞が城はすでに花は散っていた。わずかに余花が散るだけとなっていた。花は盛りに見るだけではない終わりもまた風情あるというのは本当である。二本松の本丸跡は見晴らしがいいし高いのだ。あの石垣はあとから作られたものだがあれだけ高いと気持ちいいだろう。あそこは相馬とか三春の方を一望できる気持ちいい場所なのだ。
絶頂の城たのもしき若葉かな 蕪村
まさに本当にあのように城があったらこれにぴったりである。今日は異常に暑かった。道路の温度計が29度になっていたのには驚いた。春というより夏だったのだ。残雪の光る安達太良も見たし気持ちいい一日だった。なんとか一日の範囲で行ける所を全部回ったみたいだ。三春にも行けるだろう。一日でも交通が発達しているからこれくらい行けるのだ。


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