2010年05月25日

野馬追いの鎌の旗印の背景

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野馬追いの鎌の旗印の背景

 

8月に入ると、その年の宮当番に当たった村人が七尾の鍛冶屋に例年のとおり一対の鎌を制作を依頼する。
25日には、当元をはじめとして各戸の当主らは大地主神社へ出向き、日室から持参した大榊にでき上がった一対の鎌を結えて神前に供え修祓いを受ける。

 

日室の鎌祭り
http://www.nanaoh.net/p137.html

 
農具の鎌をかたどったこの紋は、諏訪明神の信仰に基づくもの。鎌を諏訪明神の神体として、これを信仰する人々が家紋としました。また、敵をなぎ倒す尚武的な意義をもち、小早川氏は豊臣秀吉より桐紋を授与されていたものの、勝兆を祈願してこの鎌紋を使ったとされます。
 
鎌は農民にとって大事なものである、山の民にとっても木に鎌をつきさすのはやはり鎌が仕事で使って大事なものだからである。斧にまつわる伝説も多いのもそのためである。大工でも他の職人でも道具を大事になる。道具は自家製のもあり職人が様々な道具を使いモノを作っていたのである。そしてこの鎌は農民にとって自衛手段としての武器となりそれで農民から棒の手という武芸が生まれ発達した。三河の西尾市のおまんと祭りも走る馬にとびかかり一緒に走るという祭りも戦国時代に生まれた祭りだという。野馬追いも戦国時代からはじまった。
 

愛知県棒の手大会
http://kamezo.cc/blog/entry/79197

 
小早川氏がこの旗印を使っていたのが野馬追いの旗印にも使われた。小早川氏と関係あるかどうかはわからない、石田三成の旗印が使われた由来は相馬藩政記に記されているから明確である。小早川氏についてはわからない、ただ鎌の旗印はその由来も古い、鎌とつくのでは藤原鎌足とかいるし
 
鎌刃城は別名を釜川城とも言われ、米原市番場にある戦国時代の山城です。城の正確な築城年数は不明ですが、江北と江南の国境線に位置する「境目(さかいめ)の城」として、在地土豪の堀氏によって応仁の乱の頃に築かれたと考えられています。
 
鎌はそれだけ大事なものだった。農民にとって鎌は極最近までも大事なものだった。中国で鎌一つをもって麦刈りの出稼ぎに来る農民を写していたがなるほど鎌一つは農民にとって武士の刀と同じだったのである。現実に農民が自衛手段に鎌を使った棒の手の武芸が発達したことでもわかる。武士は元はみなん農民だったからである。鎌の旗印を見るときはこうした歴史的背景を考慮すれば興味がわく。
 

ソビエト連邦の旗は鎌とハンマ-だった
http://byeryoza.com/topic/log2006/hata.htm

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消滅したソビエト連邦の旗は鎌とハンマ-だった。もっとも低所得者の農民や工場で働く人たちの象徴の旗印だからそうなった。外国の鎌は日本の鎌より違っている。土地土地により鎌も道具も違ってくるのである。
 
posted by 老鶯 at 21:27| Comment(0) | TrackBack(0) | 歴史(相馬郷土史など)
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