

伊豆の下田に行ったのもずいぶん時間がたってしまった。それでも極最近行ったような気がしている。旅の記憶も不思議である。検索すると次のような句がでてきた。
薊咲き下田通ひの船がゆく 臼田亜浪
伊豆の海や紅梅の上に波ながれ 水原秋櫻子
鎌倉の草庵春の嵐かな 高浜虚子
江戸時代、下田は諸国の運搬船の寄港地として栄えました。毎年、3千艘もの千石船が出入りしたといいます。
俳句でもなんてもそうだが生活として活きていたとき芸術もあり生活が喪失しなくなったとき芸術もないのだ。だから中山道で昔と同じ街道を再現してもリアリティがない、映画のセットのようなものになってしまい味気ないものになる。過去は実際は生活があって活きてくるのだからその生活がなくなれば死んでしまう。下田は船が通った時、活きていた。だから薊という平凡な花がここで活きてくる。薊についてかなり書いたからこれも加えればまた薊についての情報がインタ−ネット上で増すことになる。
伊豆の海と鎌倉は一体である。鎌倉時代はまたいろいろあったが海への交通がかなり活発になった時代でもあり海への視点が欠かせない、鎌倉に消えた和賀江島の港もそうだろう。南相馬市の鹿島区の烏崎に船で上陸したという岩松氏も鎌倉から来た。鎌倉時代はより海が身近になった時代だった。これで忘れられないのが韓国から船で福岡に帰りそこからさらに船で伊豆沖から東京に帰った船旅だった。そのとき秋であり朝の海が荒れて伊豆の七島が見えたのだ。この島をみた時鎌倉に帰ってきたと昔の人も思った。
鎌倉に我が帰るかな浪荒し伊豆の島々秋の朝見ゆ
下田というとまた明治に開港した港の歴史もあるから多彩である。伊豆の踊り子でも情緒を残した。日本は海で囲まれているから港は無数にあるし港の歴史でもある。船旅は好きで日本は90パ−セントは乗った。船旅はゆっくりしているからいいのだ。シニアに世界一周の船旅が人気なのはわかる。シニアに向いているからだ。
伊豆の沖春の浪路や富士の峰
船帰る伊豆七島や秋の海
大島へここよりたちぬ旅路来て下田の港春の夕暮
山頂に春風吹きて開国の下田の港真下に見ゆ
山頂に花吹き散りて風強し開国の港に春日落ち行く
伊豆と鎌倉は一体でありその風土のなかに作られた。鎌倉が山に囲まれ海に面していたというのも自然の要塞であり海に向かっていたのもそのときの都に必要だったからである。伊豆七島でも三宅島とかには行っていないしまだまだ行けない所があるし一二回でも地理とかその土地のことはつくづくわからないものだと思った。なんとか記憶を掘り起こしてこうして書いているのである。