看護介護教育には平等の原理が必要
本当に困った人を助ける仕事がしたい
今の仕事(顧客は主に富裕層です)に嫌気がさしてきました。
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金持ちはどうしても傲慢になりやすいのだ。だから福祉の世界は介護でも看護でも平等の原理が働くことが理想である。金持ちを優遇するということは介護とか看護とか医療とかにかかわる場合はモラルに反することになる。医は仁術とはそのことでありナイチンゲ-ルが敵の傷兵をも看護したことはそのことなのだろう。医療の世界でも内臓移植とかは特別でありそれは金がある人がやるべきものであり金のない人はあきらめるほかないだろう。何故ならそれは特別な高度な医療だからである。そういうことは別にして平均的な治療はやはり金持ちだけが優遇されることはモラルに反することになる。だから介護とか看護には宗教的なものがモラルとして必要になってくる。カルトのような悪質な団体に利用されるというのではなく万人を愛するとか慈悲の心とかそうしたものがどうしても必要になってくるのだ。そこが医療とか介護とかの世界が競争原理とは違った世界だった。
医療の現場でも介護でも報酬は給料は大きな問題であり関心の第一にある。それを否定することはできない、それ相応の報酬は必要である。でもここに生きるか死ぬかという人が救急車で運ばれるときこの人には金を払えないとかで拒否できないのが医療の現場なのである。ともかく命を助けねばならないとなるからだ。その時この人は貧乏で治療費を払えないとか言っていられないからだ。医療というと確かに今は技術的な問題が最優先される。モラルと関係なくまず病人を直せるのかというのが最優先となる。その医者の人格がどうのこうのは関係ない、技術的に神の手をもつ人こそ最も優れた医者である。みんな医者の人格がどうのうこうのよりどれだけの直せるか手術だったら技量をもっているかで医者の価値は判断されるのである。では技術的なことだけで医療や介護の現場が解決するのかとなるとならない、医者も看護師も人間であるし患者や看護介護される人も人間だからこうした問題が起きてくるのである。金持ちには特別良くして貧乏人には良くしないとしたら看護の精神に反するからそうなる。だからアメリカでも日本のような保険制度を導入するようになった。すべてが平等である必要はないのだ。金持ちには金持ちの役割がある場合がある。金持ちがいなかったら貴族がいなかったら学術とか芸術や天才などは生まれなかった。そういうものは貴族の子弟から家庭教育から生まれたからである。すべてが平等な世界からは共産主義のように労働者の蟻しか生まれないからだ。貴族にはモラルが要求された。アメリカの金融業でもうけるような人たちにはモラルがないから世界から批判されたのである。
とにかく医療とか介護の分野ではまた教育とか分野では平等の原理が必要になる。貧乏人の子供は高度な教育は受けられないとかなると差別になる。だから高校無償化などはいい政策なのである。奨学金制度などもそうである。病院とか施設とか教育でも相手が人間であるということ、そこがモノを作ること機械を操作することと違っているのだ。そういう所ではどうしても医者であれ看護師であれ介護士であれ教育者も人間性が問われることになる。医者の人格が変だというときやはり人間と人間が向き合う現場だから指摘されたのである。「医は仁術」というとき医者自体がそういうことを感じていたからこの言葉が生まれたのである。人間をとして扱うからこの言葉が生まれた。一方で医療の現場でも人間をモノとして扱う、処理するということがある。
病院で死んだら一刻も早くかたずけてくれ、病室に置いておくなとか何か人間を死んでもモノのように扱われたのは医は仁術から離れたものとなっている。一見科学が急速な進歩をしても江戸時代の方が人間を人間扱いした面もあったから進歩とは何なのか疑う、もちろん江戸時代など医者すらかかれないという現実があるから一概には言えない、モノ扱いでも医者にかかれるだけで幸せなんだよそんな贅沢を言ったらきりがないといわれればそうかとなる。 でも医療とか介護は人間と人間が向き合う現場だからどうしても技術的な問題だけでは解決しない、モラルが問われることは変わりないだろう。