2010年04月13日

南相馬市原町区の桜(墓の不思議)

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朝の風落ち合う流れ芽吹きかな

原町の郊外広し春の畑

原町の郊外広し燕来る

原町に通りの多し燕来る

原町へ松に日のさしゆくりかに浜街道に桜咲きそむ

夜ノ森に花見の人や昔なれ母の実家は今はなしかも

墓のみそ残りてあわれ夜ノ森の桜を見しと我が帰るかな


南相馬市原町区の夜ノ森公園の桜は満開になっていた。あそこのすぐ近くに母方の実家があった。その実家が消えて久しい、実家は消失しても墓だけが残った不思議である。墓が実家の代わりになっているのだ。意外と墓は家がなくなっても残っているし無縁化しても墓だけは集められて残っている。墓は意外と長く残る。実際実家はないのだから墓が今や実家代わりなのである。そして最後に遺言した実家の長男たるべき人の言葉が忘れられない、「墓を守ってくれ」と言って死んだのである。だからその言葉が墓から聞こえてくるから不思議である。その人とは30年も会わなくなっていた。死んでから墓に語りかけてあっているというのも不思議なのだ。最後に言う言葉はやはり重みがあるのだ。とにかく実家の墓はいろいろと複雑すぎた。でも原町には縁深い人であり原町に眠るのにふさわしかった。墓も誰かが墓参りしたり死者に語りかけているときは活きているのだ。墓はだから近くに住んでいる人がいないと守りにくい、結構墓掃除とか行ったりしないと墓は汚れる。東京とか余りに遠くなると墓を守ることができないからその子供などは東京に墓を移してしまうのである。墓は掃除するだけでも死者に語りかけることなのである。


墓についてはいろいろ書いた。墓から歴史を探ることもしてきた。墓はやはり歴史と密接に結びついている。

死者はつねに見捨てられた歴史の彼方で、生者を呼んでいるのです
http://www.shonan.ne.jp/~kuri/hyouron_2/haniya/hennshitu.html

墓は江戸時代の武士ではない庶民の墓もある。そこには名字もあり名前も記されている。でもそれ以上のことはわからない、でもその墓を見るときこの言葉を感じるのだ。どれだけの死者が歴史の彼方に見捨てられているか?戦争で死んだものもさらに見捨てられる、陸軍兵長とか墓に記してもそれが今何の意味があるのかと思う、何か虚しい、でも戦争当時は誇らしげにその階級を記していたのである。
そして墓所でもいろいろあった。原町区の橋本町の墓所は街の中にあり広く区画されているから近代的な墓地である。一方鹿島区橲原の杉木立の中に隠れるようにある粗末な墓に心ひかれるのはやはり名も定かでない石くれの粗末な墓だからである。立派な墓だったらかえって心にひかれない、墓自体が隠れるようにあり外から来た人にはわからない、それが落椿とあっているのだ。墓は場所によって相当違ったものになる。都会の墓は鉄道のすぐ脇とか騒々しい所にあるから嫌だと思った。団地のようにロッカ-のような骨を納めただけの共同墓も何か嫌である。でも橲原のような杉木立の墓にひっそりと埋もれて眠ったら幸せだと思う。死んだ後のことなどわからないとなるがやはり都会の騒々しい所には死んでもいたくないとなるのが人情である。でも橲原にしても産業廃棄物として埋め立てられた所があり田舎も産業廃棄物の場所が多くなっているからすべてがいいとは限らない、ただ墓所はやはり心鎮まるような場所があっている。
それにしても原町はつくづく広い、ス-パ-のキクチだけ三つもあったし最近イオンも出たのだからス-パ-だけでもいくつあるのか、歯医者は軽く十以上ある。鹿島とか小高は原町区に吸収されて商店街もますますさびれる、ス-パ-さえ原町区に吸収されるのである。ただそれぞれの街や村には必ずないようでも特徴がある。原町区は相馬市より面白い街かもしれない、一早く近代化された街としてすでに百年の歴史があるからだ。近代化の産業の遺産が廃墟として魅力が見直されているのもそれが歴史になってしまったからである。


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これは面白い、中に窓を作り花を飾っている、そこがアイディアだった
 

落椿の墓地(橲原-詩) 
 http://musubu.sblo.jp/article/37076028.html

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