90歳春風吹くや姥柳
認知症は90歳以上になると5割がかかる。認知症になったらこれは手がつけられないひどいものになる。高齢化社会はこれほど恐怖的社会であることがわかった。90歳でも携帯電話をやりアパ-トでもそれなりに暮らしている老人もいるが一方認知症になるとやはり体まで弱ってきて何か表情自体苦しそうにしている。頭から体まで病気なのである。老人でも健康な老人と認知症にかかった老人とでは天と地の差がある。認知症は人間を地獄に落とす病気である。それにかかる率が年取るとともに高くなるから恐怖なのだ。
介護を考えるとに医者によって診断して注射したり薬を与えたりする。肉体的な面での世話がある。これは体が悪いから体を重点に医学的療法をほどこすのだ。これは技術的に差があっても認知症のような精神的な病気の介護は精神的ケアの方が大きなものとなる。肉体的ケアでも介護は精神的ケアが絶対必要でありこの精神的ケアは医学的なもの医者では補えない、看護婦とか看護師がその役目をになうのだがこの精神的ケアには無限の幅があり認知症のようなやっかいなものに他人が対処するとなるとこれは筆舌に尽くしがたい苦労を負わされることになる。だから認知症のような病気には他人では対応しきれない。家族さえ対応できないひどい病気だからだ。
介護には愛が必要だというときその愛は人によってかなり差がでてくる。日頃介護する人に苦しめられた人は虐待にまでなる。日頃の関係が介護にでてくるのだ。精神的ケアの部分は人によってかなり差がでるしまた精神的ケアは無限に伸びる大きくすることもできる。肉体的医学的ケアはそんなに大きく変わらないが精神的ケアが大きく伸ばすことができるのだ。認知症のような病気は特にそうである。こちらが助けようとしてしも盗られたとかけられたりなぐられたりして介護すること自体、他人ではいやになるし介護を放棄したくなるのは当然なのだ。それは家族でさえそうだからだ。
これはいくら金をもらっても本当の介護はなかなかできない、殴られ怒鳴られて愛をもって他人を介護できるのか?これは主イエス・キリストのような無限の忍耐の愛が要求されないか?
金をいくらもらってもこれはできない、右の頬をはたからたら左の頬をだしなさいと言ったがこんなものじゃないのだ。怒鳴られけられ何の感謝もない、こういう人間に愛をそそぐことは無限の忍耐と愛が要求されるのだ。これはまさにキリストが十字架にかかったような犠牲の愛が要求される。介護とはそれほど大変なものなのだ。特に認知症とか精神的な病気はこれは精神的ケアが大きな部分をしめているから大変なのである。