2010年04月03日

善を成すことではない悪を成さないことが善


善を成すことではない悪を成さないことが善

 
口から出て行くものは、心の中から出てくるのであって、それが人を汚すのである。というのは悪い思い、殺人、姦淫、不品行、盗み、偽証、ののしりは心から出て来るからです(マタイー15−18)
 
人間の善行は何か寄付したり具体的に他者を援助したりすることだと思っている。何かを善を行動することだと思っている。善なすというより悪を成さないことの方が最高にむずかしいのだ。若いときに善を成すことはほとんど不可能である。何故なら必ず悪を成すように人間はできているからだ。若いときの性的な放埒とかそれもやはり罪だとすると人間は罪を犯さずにはいられない、罪を犯さない、悪を犯さないとしたらその人は奇跡的な人だとなる。子供の内は悪は罪はあったとししても無垢であるからないに等しい,しかし中学生、高校生となるとすでに悪を罪を犯すものになっている。精神的にも悪を犯さないということが至難なのだ。
 
口から出て行くものは、心の中から出てくるのであって、それが人を汚すのである。というのは悪い思い、殺人、姦淫、不品行、盗み、偽証、ののしりは心から出て来るからです(マタイー15−18)
 
人間は悪い思いが先にあり良い思いをもつこと自体至難なのである。ではどうしてそういう人が善行ができるのか?ボランティアとか善行がただ人に良く見られたいとかほめられたいとか別な動機がありその心の中はわからない、だから神は行動より心を見ている。行動よりもその動機がどうなっているのかを見ている。心を見ているとしたら心を良くする必要がある。ではどうしたら心を良くできるのか、それはこの世の中で善行することではない、まず心が悪に染まらないようにすることなのだ。それは自らの内からも悪は生まれてくる、悪が生じないように訓練することでもある。現実社会なの中ではどうしても相手を蹴落としてでも勝つとか様々な競争を強いられるしそこで悪も強いられる。それに抵抗すると職を失ったりする。社会生活の中ですでに悪を成さないこと自体至難になっているのだ。
 
善は積極的に何かを成そうとする意識が強すぎるのだ。これは欧米流のキリスト教に多い。何が何でも善を成すのだというのが欧米のキリスト教である。一方精神的修養に重きを置くのが東洋なのである。宗教はむしろ東洋の方が深いのである。今のカルト宗教団体は欧米流であり政治そのものとなっているものもある。心の問題などは関係ない、社会的に利権や利益を得ればいいとなればそこにもはや宗教心信仰心の一かけらもないのだ。むしろ心を無視してこの世の利益を権力を得ることこそ信仰だとなっている。心などはどうでもいいこの世の実権、利得を得ることが先になる。宗教は仏教だって心の修養としてはじまったのである。それでなければ洞窟に樹の下に悟りを開くために何年も黙して座っている必要がないからだ。心の修養を第一としたからそうしたのである。沈黙することはやはり口から悪い言葉をはかないことであり修養だったのである。
それでつくづく掲示板でも書いたが人間はどんな人でも他者を傷つける、傷つけない人はいない、男女間でもそうであり親子間でもそうである。実際に調和しているのはまれなのだ。離婚がこれほどあることでもわかる。男女の間でも調和するのがむずかしいのだからましてやその他でも調和することは至難だとなる。
 
だから大きくは戦争はなくならないというのもそのためである。人を傷つけないのは樹や石くらいなのだ。だから樹や石は詩にも書いたが奇跡的なのである。樹は枝を交わして隣の樹を傷つけることはない、ののしったりすることは全くない、石も誰かにののしりの言葉を吐いたりしない、そんなこと当たり前じゃないかとなるがでも人間社会からするとそのこと自体奇跡的だしもし誰も傷つけることがないような悪を成さないような人がいたら奇跡的でありそんな人はこの世にいないとなるのだ。すでに悪を罪を犯すことが宿命づけられているのが人間だからである。罪なき人?それは誰なのか?主イエス・キリストしかいなかった、それはまさに奇跡だったとなる。その他は全部罪人だったとなるからだ。その罪犯さないということは何か特別な善行をすることではない、悪を成さないということでありそれは行動的にも精神面でもそうである。心の中で憎しみが一杯になって恨みをもつとしたらやはり罪になるとしたらいかに心でも罪を犯さないことが至難かわかるのだ。エデンの園には罪がない世界であった。罪が入ってきたとき人間はエデンの園から追われた。でもエデンの園は神が造った自然だから今もあるからエデンの園はイメ-ジできるのだ。ただ人間は余りにも悪にそまり罪だから見えなくなってしまっているのだ。
 
青春時代は何か善行を行うことではない、むしろ善行はできない、いかに悪に染まらないか、悪を成さないかの方が大事であり守るべきものか知っておくべきなのである。どんな人だって結婚すれば妻を傷つける、結婚はだから罪を重くするともいえる。悪に染まりやすくなるともいえる。でも結婚は悪いとはいえない、むしろ独身というのも罪であり全部いいとは言えないのである。これも人間としては変形したものとなるから全部がいいとは経験からは言えないのである。ただ僧侶など社会に深入りしなかったのはやはり世の毒に汚されないためにそうしたのである。でもこれが全部いいとは言えない、でも社会の中で悪に染まらないことがいかにむずかしいかを知っていたからそうしたのである。社会の中ではおべんちゃらとかごますりとかいろいろ口でも言いたくないことも言う、そういうことが普通でありさけられないのが社会である。とするとそういう社会から身をひいて心が悪に染まらないような場に身を置くことも必要なのである。
とにかく善を成すことではない、悪を成さないようにすることこそ心がけべきなのである。でも実際はそういうことをあまり心がけない、しゃにむに行動に突っ走るのが青春である。あとで悪を成さないことこそが善でありそれが石や樹を見ればわかるように奇跡的なことだったことがわかる。そんなことが善だったのかという意外なことに気づくがもはや時遅しとなっているのが普通なのである。
posted by 老鶯 at 00:09| Comment(2) | TrackBack(0) | 聖書の言葉と詩など
この記事へのコメント
キリスト教にもカトリック派とプロテスタント派がありますね。私はそもそも神様も一人みことばを表した聖書も1種類でなければおかしいと思っています。派閥も人間が作ったもので純粋なキリストの教えとは思えないのです。認知症に関するあるスキルを修得する為に病院で1ヶ月間の研修を受ける予定なのですが、受け入れ先が各派閥が運営している病院でした。
派閥よりも研修がメインなので深く考えてはおりませんが、派閥や聖書の多さに疑問を感じております。カトリック派とプロセスタント派の違いって何だか分かりますか? 私の教会は派閥に属さない聖書のみの福音で間違った価値観はハッキリと訂正して下さいます。聖書も冷え冷えとした萎えた私の心を温めて下さいます。
兄や神様が私に素敵な贈り物をして下さいました。
心の問題を無視し良く見せようと八方美人の仮面を被り、裏では人を使って悪を成す人が多いので悪は絶えないのでしょう。それに慣れた人は一生変わる事はありません。
何の罪もない兄の命が犠牲になっても(いいえ…奪ったのです。)彼らには改心の余地はないものと判断しました。
神様は罪を認めて償わないならば、罪を作り続けるならば裁かれるでしょう。神様はえこひいきはしません。









Posted by 玉本あゆみ at 2010年04月04日 15:37
>私はそもそも神様も一人みことばを表した聖書も1種類でなければおかしいと思っています

日本にはカトリックもプロテスタントの歴史もありませんからどっちに属するようなことは必要ないです。宗教は別にどこの宗派に教会に属することでもないですから
一種類の聖書として学べば良いということです。内村鑑三などはそういう主義でした
無教会派を唱えましたがこれもまた・・派と言っていますから人間はどうしても派閥を作ってしまうんです・・・どこに属していようが聖書は一種類ですしそれを仲介する牧師であれ派閥の人を通すと別なものになってしまうことがありますからじかになるべく聖書から学んだ方がいいでしょう。
Posted by プログ主(小林) at 2010年04月05日 21:37
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