ドラマ-定年ゴジラを見て(老人になることの不思議)
●団塊の世代の悲哀
みんなゴジラなんですよ、あの頃欲しくて欲しくてたまらなかったのもが色あせてみえる
壊れてしまってもいいものに見える
ここでビ-トルズのミッシェルが流れている。団塊はビ-トルズの世代である。でもなんだか役者は団塊より十年はふけているように見える。まあ、六〇代になると一〇年くらいの見た目の年齢差がある。でも六五才前まではまだ働いている人が結構いるからあんなに老けてはいないだろう。ただ同級生で背中がエビのように曲がっていた人がいたのには驚いたがあういう人はほとんどみかけない、ニュ-タウンとか団地はすでに高齢化して歴史になりつつある。すでに団塊の世代は老人の悲哀を味わう世代になったことに深い感慨を覚える。
この言葉は何も団塊の世代だけに言えるのではない、老人になればみんな経験してきたことではないか?美しく若かった青春ははかなく消えてあとは老残の姿だけが残ることはくりかえされてきたことだからである。ただやはり団塊の世代が一つの時代を残し高齢化しているのだ。
そこにいろいろな人がいて人生を刻んできた。戦争を知らない世代の高度成長時代を経験した団塊が過去のものとなりつつある。これもくりかえされてきたことである。しかし現実に自分自身が老人になってみることは老人になってみないとわからないのである。老人になることは老人になってみないとわからない不思議な経験なのである。ジジババをひっこんでいれとかなっているがそういって若者もまもなく同じ立場になるのである。でも会社勤めをして会社に価値のすべておいた人生が今になると虚しいものとなる。でもどんな時代でも老人になればただ無常、儚さを覚えるのが常である。ただニュ-タウンとか団地とか団塊の世代の特徴がありそれが今や過去のものとなりつつあることが同世代として共感する、だからこうした過去を回想するドラマとか音楽とかそうしたものはノスタルジアとなり老人に受けるものとなる。今や団塊は過去をなつかしむ時代になったのだなとつくづく思う。ただ自分はそうした家族とか会社とか全く無縁のアウトサイダ-だから今老人になったときそういう会社人間や家族人間が何であったのか理解できない、つまり世間の垢にまみれることがない人生だったのである。それは全くそうした人たちとは違っている。一般的には老人はあのようになっているのが普通なのだろう。ほとんどの人が会社人間で一生終わり家族人間でマイホ-ムで終わっているからである。その意味はあるないにしろ共通しているのだ。
●青春時代の過ちの怖さ
でもせっかく築いてきたものをゴジラのように壊したい、壊してまた一からやり直したいというのはわかる。それは切実なものである。もはや時を取り戻せないからである。これが人生の厳粛さであることを知らない、若い人も知らない、人生の浪費が老人になり恐ろしい悔恨となる。そして意外と青春であれ一生は鮮やかに記録されているのだ。忘れると思ったらそうではない、老人になるとかえって生々しく青春の放埒さ無謀さなどが蘇ってくるのだ。青春時代のことはなかなか忘れない、だから青春時代を節制しないで放埒に過ごした人は相当後悔する、もはやとりもどすことができないということが老人になることの残酷さなのである。顔にしてもその人の人生が刻印されていてもはや変えることができなくなる。人生は何か必ず記憶されるし記憶は消えない、過去のことでも記憶されている。老人になるとかえってその記憶が蘇るのだ。自分の一生は何だったのだろう。?こういうことがかえって強く意識されるのだ。罪も例え法から逃れても記憶されている。カインの顔に刻印されたように記憶されているのだ。そして老人になったらもはや刻印されたものを消す術がなくなる。こういうことが老人になる残酷さなのである。
青春時代とか若いときは罪とか不埒なこととかいろんなことをやり放題だけどあとでそういうものが記憶として蘇るのだ。その時後悔しても取り戻すことはできない、人間は非常に人生を罪などを軽くみているのだ。そもそも無我夢中で生きているのだからそんなことを老人になってから意識される、記憶が蘇ることなと考えない、でも不品行などは実際悔恨となって蘇ってくる。法に触れなくても自ずから罰せられるのだ。老人はなんであれ人生の結果として現れるのである。若いときなら偽ることもできたが老人になるとできないのである。青春時代の過ちというのは相当にあとあとまで尾をひくのである。カルト宗教団体などから早く手をひかないと結局人生そのものを悔恨に終わらせることになる。もはや手遅れになってしまう。でも現実は多くの人がカルト宗教団体に入って一生を終わる。その人たちの人生は過ちの人生だったとしてももはやとりもどすことができないのである。老人になると人生の総決算が起きてくるのだ。総決算して死に向かってゆくのである。死の前に人生の総決算が起きてくるのだ。あなたの罪はあばかれ隠すことはできない、あなたを苦しめるのである。「悔い改めなさい」というが老人になってはできないように思う。すでに時遅しとなっている。カインに刻印された殺人者の罪は消えることがない恐怖なのである。人間の体さえ先天的なものではなく後天的に作られる度合いも大きいのだ。顔に責任をもてというが体にも責任をもてとなる。病気は生活習慣病が基でなっているのが多いし認知症も明らかに生活習慣病の側面がある。退職後なまけているとなりやすいことは確かだからである。こうしてあとで迷惑をかける老人になることは若い世代の負担になることはまた罪なことなのである。
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