インタ-ネットは編集で活きる(インタ-ネットの有効活用法)
インタ-ネットの世界は10年間くらい経過したけどやはり未知の部分が多いしどう対処していいかわからない面が以前として多い、ホ-ムペ-ジ制作して10年すぎている。その間に対話というのをしていなかった。発言されにくいのはわかるがただ一方的発言に終始して10年が過ぎた。なぜ反応もないのにこれほど書き続けたかというと自由に書ける発表できるという魅力が大きかった。ともかく自分の書いたものを創作したものを反応はないにしろ一応社会に発表できることは報道できることは報酬がないにしろ誰でも生きがいをやる気にさせるものである。本を出して発表するとなるとすでに社会的に有力な人でしかできないようになっている。本自体を作るのは今や電子化してそんなに金はかからない、ただではそれを流通させるとなるともはや普通の人にはできない仕組みになっている。だからそうした発表や報道の機会を失われたものはインタ-ネットでやるほかないのである。それが反応があるないにしろそこしかないから書き続けてきたのである。一応アクセス解析などをみるとこの記事が読まれているとかわかるから全く反応がないのとは違う。
それからインタ-ネットは必ず他のサイトとかの文を参考にすることが多い、インタ-ネットは必ず編集しつつ創作してゆくのである。ただ膨大な情報に接しても自分なりに編集しなければ活きてこない、インタ-ネットに欠けているのは編集作業である。膨大な情報と発言があっても編集がないからその場限りであり価値を帯びてこない、掲示板でも2ちゃんねるとかだと相手のことはほとんどわからない、どういう立場で発言しているのかもわからない、そしてその人の発言はその場限りで一回限りで終わりであり消えてゆくのである。そこに個人としての存在はない、断片化した部品化したものがあるだけである。つまり情報があっても人間個人は存在しないのである。ほかの掲示板では常駐している人がいて匿名ではこの人はこんな人だとわかってしまう場合がある。でも2ちゃんねるは大衆的発言の場であり個々人は全くその場限りで消えてしまうはかないものとなる。そういうものだとして発言している場でもはあるから批判もできない、実際にインタ-ネットはいろいろな利用方法があるからツイッタ-とかいろいろなものが次々に出てきて追いきれないのである。
そもそも見知らぬ人と文章で対話すること自体今までありえないことだった。そこからしてインタ-ネットは理解しにくい、でも明らかなことは編集作業がないと活きてこない、編集する人がいないと活きてこない、それは医療分野だったら医療に特別詳しい人が編集する必要があるのだ。俳句とか短歌とかでもやはりその分野に通じた人が編集しない限り活きてこない、この句はここが良くてここが悪いとか批評が編集が必要である。そうしたものでもなく日常的瑣末な会話でも編集するとそこに発見するものがある。誰かがその会話の価値の重要性を認めることがあるからだ。その価値を認めることが編集なのである。そうでないと価値が認識されないままにただ消えてゆくだけだとなる。こういうことはやはり今までのマスメデアでも出版社でも行われて来た。だからそうして出されたものは読まれるべき見るべきものとされていたのだ。でも一方でそれがかえって一方的に作られた偏向したものとされて批判されるようになった。マスメデアから出版界でも認められないものは全く価値がないとされたからである。だからマスメデアで報道されないものはなぜなのか?報道されないものに重要なものがあった。それは読者が視聴者が判断するものでありマスメデアが判断するものではない、それで誰でも発信できるようになってマスメデアの一方的偏向報道が批判されるようになったのである。しかしまたインタ-ネットでは玉石混淆でありやはりそこでは誰かが編集しないと情報の混沌の中にほうりこまれてしまった感覚になる。それは掲示板とかでもそうなのである。編集すると活きてくるものがある。
個人化(Personalization) 個人に最適化されていること
解釈(Interpretation) コピーの価値を上げるための付加価値を持つ情報
具体化(Embodiment) 情報に実体を持たせること
後援(Patronage) 作者との関係性
この文も偶然に見つけた。なるほどと思った。個人化(Personalization) 個人に最適化されていることとはやはりその人が編集してその人にとって何が価値あるか提示することである。それは個々人によって価値あるものは違うのである。解釈(Interpretation) コピーの価値を上げるための付加価値を持つ情報・・・これもコピ-しただけではだめである。それにその人なりの価値づけが必要なのである。
後援(Patronage) 作者との関係性なども大事である。どういう人と人が会話しているのかわからないと他者もわからない、インタ-ネットでは老人と小学生か知らないで話してしいたとか女だったのに男と話していたとか現実にあるのだ。そういう異常なコミニケ-ションすら成り立つのインタ-ネットなのである。たいがい水平化して平行化するのもインタ-ネットである。誰かが特別優れたものとして認めないのインタ-ネットである。でも編集できるのはやはりそれなりに経験を積んだその道を究めた人でないとできない、その人が編集すれば専門家でなくても普通の人の発言も価値帯びることがあるのだ。
自宅に一人でいたのですがパニックに陥り、母に連絡する前に、近所で可愛がってくれていた独居のお婆ちゃんのところに駆け込みました。相手が認知症だという事も忘れて膝元でワンワン泣き崩れてしまいました。 (そのお婆ちゃんは、私が認知症だと分かり御家族に介護サービスの利用を勧め、今は機嫌よくサービスを利用しています。)やはり弱者に立たれた方は、人の痛みを自分の痛みのように感じて下さって、御自分の御主人や御子息が亡くなった時の痛みを何度も話ながら、私の背中をさすって一緒に泣いてくれました。
これは玉本様の発言にあった。助けてくれたのは個人でありカルトとかの宗教団体とも違う。自分の場合も一人の近くの老人がかわいそうだなと同情してくれたのである。徳とは愛とは個人的なものである。集団や組織には徳とか愛はない、集団や組織は権力組織であり個人は権力組織に利用されるだけとなる。個人的な徳とか愛はそこにはない、一見つまらないような何でもないようなことに愛があり徳があることを発見する。それは全くオレはオマエを助けてやるんだというとかの押しつけがないのである。このことに注目したことが具体化(Embodiment) 情報に実体を持たせること・・なのである。こういうことはやはり長い文章で相手のことを理解しないとできない、対話からはずいぶん遠ざかっていたが確かにインタ-ネットでも見知らぬ人でも対話が成り立つ、相手のことを知ることもできるし信頼関係も作ることができることを発見したのである。そのために断片的会話ではできないのである。
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