


高瀬川から葛尾村まで春の短歌二十首
家一つ葛尾に古り春田かな
大堀を春にたずねて壺一つ我が買いうれし茶室に飾る
高瀬川春の光にきらめきてひびき流るや山鳩の飛ぶ
高瀬川激ち流れぬ春の日や奥へ奥へと我が上りゆく
高瀬川ここにも暮らしの跡残る森林鉄道のトンネルくぐる
都路へつづきし道や久しくも我は行かじも春の日暮れぬ
高瀬川激つひびきやコジュケイの声もひびきて葛尾に入る
家一つ葛尾に古りその裏に江戸時代の墓春の日暮れぬ
葛尾に古き碑多しその一つ我が手にさする春の日さして
葛尾に何かありなむ古き碑の苔むしあわれ春の日さして
我が父の葛尾に生まれ町に出ぬ山深きかな春にたずねぬ
家一つまた山陰にひそけきや葛尾村の春の夕暮
葛尾の柏原とその跡や祖父の住みしと我がまた通る
我が父の小出谷より出てあわれかな丁稚奉公や通帳残りぬ
我が姉の縁も深し小出谷かなその跡悲し春になれども
葛尾に春の日さして老婆かな杖つき歩むもあわれなるかな
葛尾に誰か住むなれ家々に暮らしの重み春になりしも
葛尾に春の彼岸や若き人故郷にきて花を捧げる
葛尾に葛尾大尽その栄遠き昔や春の日暮れぬ
山陰になお雪残る葛尾や下冷田へ我が帰りゆく


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森林鉄道のトンネル
大堀で瓶を買った。大堀は景色的にいい場所にある。高瀬川も流れている。落椿がきれいな流れに流れゆくの見た。 高瀬川に入るトンネルは森林鉄道が通っていたためである。途中のトンネルもそうだろう。落合辺まで森林鉄道が通っていた。これは相当な距離である。木材で財を成した家は山にあった。そんな古い家の一つが写真に出したものとにているのか、というよりは養蚕していた作りなのだろう。山村でもそれなりに栄えていた。木材資源が利用されていたからである。葛尾村は相当に因縁深い土地だった。父親が葛尾村の柏原が出て小出谷に移り住んだ。小出谷とは出小屋であり小出屋である。つまり柏原から出小屋として移り住んだ。柏原には平地があり田畑があるが小出谷は後ろは山であり崖であり前は川だとしたら田畑も作れない、不便な地域である。なぜそんなところに移り住まねばならないのか?前にも書いたけど土地がないから不便な地域に移り住むほかなかったのである。ネパ-ルでもなぜ高い地域に移り住んだかというと土地がないからそうなった。不便な地域は一見昔から人が住んでいるように見えるが新しい場合があるのだ。鹿島区の上萱(うえがや)などがそうである。遂にはそういう場所では暮らしていけないから町に下りてくることになる。でも山仕事があり林業が盛んなときはそれなりに暮らしていけたのである。いづれにしろその後加速度的に葛尾村なども家が減少した。実際にゆかりのある実家ともいえるものもなくなってからずいぶん過ぎてしまった。
三春へと葛尾大尽の使いかな山にも栄春の日暮れぬ
こんな感覚になるのがやはり葛尾村であり地理的感覚では三春との交流が深くなるのだ。
飯館村が6000人で葛尾村が1500人では葛尾村は限界集落化しつつあるのか、一つの村として行政を行うにも確かにこれでは限界になる、飯館はまだ6000人で南相馬市に合併しなかったが1500人は厳しい、山村はどんどん高齢化するだけだから余計にこの人口では厳しい、半分以上が65才以上になり誰かが支えねばならなくなる。そしたら老人ばかりではもちこたえられなくなる。昔なら60才くらいで死んであとは結構若者が多いから山村でも成り立っていたのである。やはり葛尾大尽のような地元の産業が生まれないと山村は苦しくなる。林業が衰退したことがやはり一番の痛手だった。林業や炭焼きがあればなんとか自立できていたのである。

二枚岩
高瀬川から葛尾村まで特徴のある岩があった。鰐石としたのはこれはまさに鰐である。
葛尾村にあったのは二枚岩とした。ぴったりとくっついて離れないのがこの石である。
石にもいろいろ個性がある。浪江と葛尾村はあまり来ていないからわからないところがある。
電動自転車だと何回も来れるからよく見れるようになる。
葛尾村の明暦と元禄の碑
http://musubu.sblo.jp/article/15958029.html