2010年03月11日

南相馬市原町区上高平の五輪塔の謎

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南相馬市原町区上高平の五輪塔の謎




 鎌倉時代、青田常方(兵衛)が相馬郡領主となった相馬師常に従い、その曾孫・常永(右兵衛)は相馬胤村の老臣となっている。その子・常平(次郎兵衛)は相馬重胤に仕え、常平の弟・常清は相馬重胤とともに奥州へ下り、行方郡小高郷耳谷村山沢に館を構えて代々居住し、嫡流の子孫を「山沢青田家」とよぶ。

享保14(1729)年3月22日、扶持米で御広間番を務める七十歳以上の者に、大儀であるとして御広間番を免ぜられた。その時の高齢者筆頭として「八十六歳 山澤六右衛門

牛越城主・牛越定綱(上総介)の謀反に、相馬高胤はみずから出陣して牛越堡を攻めたが、猛将として名高い定綱に手をこまねいていた。このとき、文間胤久(萱浜五郎左衛門)は青田清弘(豊田三郎左衛門)と謀って牛越堡に偽って降伏し、定綱の首をあげた


  相馬青田氏略系図(3)

 青田常久―常義―常高―常清―常治―高治―赤沢常治………青田常美
http://members-abs.home.ne.jp/bamen/ichizoku2.htm

上高平の五輪塔の主はこの青田氏ではないか?天保で青田六右衛門(六右エ門)と記した墓誌がある。そのすぐ前の脇に五輪塔があったからだ。ここにはしかし江戸時代からの青田氏の墓は絶えたのかもしれない、これは江戸時代のものでもその後現在に受け継がれた墓でなかったかもしれない、ただすぐ近くの家の前に馬頭観音の碑がいくつかありそこに「青田常太郎」が建てたとある。これは明治以降でも常という字が受け継がれているのだ。相馬師常から常は始まっている。だから青田常太郎は武家なのかわからないが常を受け継ぐからその系統であることは間違いない、青田氏は牛越城の謀叛で功績があり相馬藩で重きを成したから今でも相馬藩全体でその姓は残されているし墓もある。ただ野馬追いの旗帳には青田氏はない、岡和田氏、小林氏はある。今もここの墓所にはこの姓の墓がある。下高平には青田氏が旗帳に記されている。青田六右衛門(六右エ門)は 山澤六右衛門でもある。これは同一人物なのかもしれない山沢に土着した青田氏が山沢の姓を名乗り移動したからである。ここは牛越城とも近いからあの五輪塔は青田氏である、その他誰になるのか考えにくい、歴史は地理であるとき狭い郷土史でもそうだった。牛越城を見てこの五輪塔があった。だから歴史は実際にその地を踏んでみないと実感しないのである。
 

上高平村の五輪塔
 

この五輪塔の名もなく古りしも

相馬四天王の牛越城の謀叛に功あり

青田氏なれや近くにその裔の常の名記す碑

今もここに牛越城を望み残りぬ

相馬藩上高平村の春田の中かな

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千葉氏のサイトは世話になったいて著作権違反の指摘があった。あそこはただ歴史的事実の記述かと思ったがそうでもないのか?歴史的な創作として記してあるのか、なんらか断りが必要なみたいだ。引用が長いからリンクだけだったらいいのか、その辺が今のところわからない、ただ指摘があれば消すほかないだろう。ただサイトはリンクできるから読めるだろう。

 
これはまだ自分の推測であり確かな考証ではありません・・・興味のある方は詳しく調べてください
posted by 老鶯 at 22:15| Comment(1) | TrackBack(0) | 歴史(相馬郷土史など)
この記事へのコメント
山澤青田氏のその後を教えていただけますでしょうか。私は江戸時代に明石へ移り住んだ山澤の子孫です。
Posted by 山澤 徹 at 2017年06月01日 20:51
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