2010年03月07日

図書館は前時代の遺物になる ?(南相馬市の図書館での講演会に参加して)


図書館は前時代の遺物になる ?(南相馬市の図書館での講演会に参加して)

 
●電子化で問われる図書館の役割

南相馬市の図書館で講演会がありはじめて図書館に入った。中には集会所がいくつもあり建物自体は利用しやすいように作られている。講演会でも前に映像を写すスクリ-ンがありそれが自動的に上がり講演者が現れる。これは珍しいですとか言っていたからあのような仕掛けは他ではあまりないのだろう。図書館自体は立派だしその建物に文句を言うことはない、良く設計されて作られている。それよりも今や図書館とは何なのか?図書館の役割は何なのか?そのこと自体がインタ-ネットの普及で電子図書館を推進した方がいいという時代に問われている。図書館は図書だから本が主役であり本なしでは図書館は成り立たない、図書館だけではないこれまでは本が知識の主役であったから図書館の役割は大きかった。
それがインタ-ネット時代になったとき一体図書館が必要なのか、本も消えるとかなってその役割が問われるようになったのだ。現実に書棚に「本は消えるのか」という本が飾られていること自体それを象徴している。これまでは本に紙にすべの情報が知識があったのである。それが知識がインタ-ネットとかで電子化されると本にとらわれない知識の探求が可能になったのである。これまでは本と比較する知識は存在しない、メデアもない、テレビとかビデオとかのメデアは確かにあったが活字メデアではないから活字は文章は本とか紙に印刷されたものでしか吸収することはできなかった

図書館は何かかつての映画館とにていないこともない、映画館でしか動画のニュ-スが見れない時代があったのだ。テレビがでてきて映画館のニュ-ス放送は廃れたのである。貸本屋というのも街にあったのは本が高いから借りて読む、漫画すらそうしていた。図書館も無料の貸本屋のような機能があった。とにかく図書館の有用性を疑うようなことはなかったのである。図書館自体の有用性が問われるのは本が消えて電子化されるということにあった。本自体の有用性が疑われているから図書館の有用性も問われる。図書館は何かというとき、本は何かと問われているのだ。図書館は何か古い本を博物館のように蒐集している感じに見えた。無料の古本屋のようにも見えた。本というのは情報を簡単に提供するより一冊一冊が装丁などに凝っているから美術品でもある。だから本は気軽に知識を吸収して読むというより美術品でありそれはもう手軽に読むというより博物館に展示する稀少な美術品のような感覚にもなっている。

●図書館は本が主役だから廃れる

図書館や本はインタ-ネットの世界とかにのめりこんでいる人にとっては何か前時代の遺物の保管場所のように見えるのだ。時代が変わると携帯電話から今の電話の違いや鉄道と馬車や人力車の時代とかの違いになる。図書館自体は本を蒐集して所蔵する機能であるがインタ-ネットのなかに電子化すれば知識はいくらでも所蔵できる。それも全国に全世界までその知識は利用できる。つまり情報や知識は場所に制限されないものだった。今までは情報は江戸時代なら立て札が高札場まで出向かねばならないし映画館の時代なら映画館まで行かないとニュ-スを見ることはできない、場所に制限されていた。一冊の本でもそれが物だから物として運んだり並べたり物を扱う不便がある。でも電子化されるとモノという物体の感覚は消えて頭脳に直接正に電子回路に頭脳が組み込まれる感覚になるのだ。確かに一冊の本の持っている意味も未だに大きい場合もある。一人の個性的な人格を示すのには本の方がいいとなる。電子空間だと全人格的表現よりペ-ジだけが一記事が百科事典のように読まれているだけで放送する方は何だ百科事典の一制作者なのかとなってしまいやる気がなくなることもある。一冊の本を出せる人はそれだけ社会に認められていたというのが今までの感覚である。だから未だに自費出版にこだわる人が多い、そして今やその人たちは本が売れなくなった出版社のカモなのである。本を出したいという人につけこんだ出版詐欺まがいのものが多くなったのである。それだけ出版社は読者より本を出したいという要望に答えてもうけることを画策するようになったのである。ベストセラ-とか馬鹿げた大衆向きの本を出して宣伝で売れる時代は終わった。出版でもうけることはもともとむずかしいものだったが今はもっとむずかしい、そもそも本を読まない時代になっているからだ。情報や知識をてっとりばやくインタ-ネットでとり入れてすまそうという時代になったからだ。だから大衆向きの本すら売れないのである。エロも売れない、だからと言って本の価値がすべて失われるのではない、古本として美術品としての価値はまだつづくのである。
 

●利用されないものはすべて廃れる


国指定になった泉官衙跡についての保存について岡田茂氏が語ったことで長崎のハウステンボスやユニバーサル・スタジオ・ジャパンは一回見て終わりである。それはイベントがない、建物があってもイベントがない、デズニ-ランドがイベントがありそれで入場者が絶えない、建物だけではない、継続してイベントがあるから入場者が絶えない、建物だけだったら一回見れば飽きるから行かない、ハウステンボスの失敗はそこにあった。遺跡の保存でもそこに建物を再現しても建物だけなら一回見て終わりである。継続して人を呼ぶにはハ-ドではないソフトの面、何かイベントとかその歴史を現在の生活と結びつけるとか工夫が必要になる。過去を活かすのも現在生きている人間であり生活だからでてある。図書館というハコモノの建物よりそこで提供されるソフトが大事になる。そこでだから今までのように一冊一冊本を置くだけでいいのかともなる。大きな画面でスライドや動画を写す場所があることはいいことである。何故なら大きな画面だと記憶しやすいがパソコンの小さい画面だと記憶しにくいという面がある。でも個人レベルでもプロジェクタ-で大きな画面で写すことができるのだ。インタ-ネットの放送もできる。すでに今日の講演会でもインタ-ネットで放送すれば全国でも聞く人がでてくる。それは別に動画も投稿できるのだから簡単なのである。とすれば講演する人自体わざわざ南相馬まで来なくてもいいしインタ-ネットだったら印刷物を無料で配っていたがインタ-ネットでもまにあうとなる。ただインタ-ネットにアクセスできない人もまだまだいるので印刷物は必要なのである。印刷物だとまた金がかかるがまだ印刷物から離れることはできないだろう。つまり図書館やその他の施設が本当に有用なのかどうか問われているのはインタ-ネットの情報空間が拡大化したためである。

自分が郷土史で発信しているのも今やインタ-ネットであり図書館では知ることはできないということもそうである。インタ-ネットでグ-グルのブックレビュ-で相馬藩政記が読めた。キ-ワ-ドから調べて一部が引用もできた。グ-グルのブックビュ-はすでに本を買う必要がない、図書館にいるように本は無料で閲覧して引用できる。だから著作権違反だというのもわかる。ただ調べるものにとっては便利なのである。そういうことが大規模に行われたら本を買う人はいなくなるというのも本当である。ただ世の中、利用されないものは使用されないものは廃れる。それが例え金になるならないの問題ではない、無数に読まれる本があるとしても無駄である。読まれてこそ本も生きてくる。だから知識はインタ-ネットのように無料化してゆくのが増大してくるのかもしれない、なぜなら金にならないとしても利用されている、読んでいる、見ている、活用されていれば価値があることなのだ。自分のサイトでもプログでもそうである。だからアクセス数が常に問題になる。誰かが読んでいるとすれば価値あるものであり利用されないなら価値がないのである。インタ-ネットが金にならないというときそれ金にならない仕組みができていないだけであり一ペ-ジ読んだら課金されるような仕組みができれば金になる。利用されていることは価値があるからだ。膨大な死蔵された本には価値はないのである。「相馬郷土史研究」でもこれが地元の人に全国の人に利用され読まれていれば価値があるのだ。金になる前にそうなのである。
これが図書館では読めない、図書館に行かなくても家で読めるから別に図書館も必要ないとなる。ただまだインタ-ネットをできない人も多いから図書館はまだ必要だったがこれを10年前に計画したときはまだ図書館の有用性を疑う人はいなかった。でもその後インタ-ネットの普及で600億円も借金している市の財政でこうしたハコモノを作ることの批判も多かった。それで前市長の渡辺氏が選挙で負けた一因になった。

いづれにしろ時代が変わると,無用の長物にてってしまうものがある。青函トンネルなどもあれだけの労力を使ったのに無駄だったとか言うのは鉄道の時代から車の時代に変わってしまったからである。計画したときはそうではなかった。技術が十年単位で大きく変わる時代にはそうしたものが前時代の遺物になってしまう。それも遺跡となるのか?ピラミッドでも万里の長城でもその他前時代の遺物はある。図書館もそうなっているかもしれない、本を所蔵、貯蔵するのではない、電子図書館にすれば場所もいらないし一カ所で統括して情報は整理管理できるのだ。インタ-ネットだったら膨大な情報を発信することも簡単である。個人レベルでさえ郷土史の情報をデ-タ-ベ-ス化できるのである。いづれにしろトルコのエフェソスの図書館も実に立派である。蔵書12万冊を誇り、アレクサンドリアやベルガモと並ぶ世界有数の図書館だった。それだけ図書館を有用性を古代からすでに誇っていたのである。ただ電子化したインタ-ネットの時代にそうした図書館も前時代の遺物となってしまう、むしろ著作権がないなら電子化した方が全国的にも広く利用されるのである。ともかく知識でも利用されるからこそ価値があり死蔵された資料や本や情報でも価値は帯びてこないのである。
posted by 老鶯 at 20:14| Comment(0) | TrackBack(0) | 時事問題の深層
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