
夏の旅短歌十首(奥会津)
木陰なす樹影の深く奥会津杉の林に隠さる村かな
奥会津古沼にあわれ菖蒲咲き訪ねる人の心にしみなむ
奥会津倒れし墓や鬼百合の咲きて暑き陽山間に没る
十数輪鬼百合咲きていづこかな会津の村々巡り来たりぬ
断崖に激流ひびく奥会津鬼百合咲きて旅路ゆくかな
夏の日に尾瀬より流る水清し揚羽とまりて旅路つづきぬ
夏の日に聳え鋭し蒲生岳つばめの飛びて我が仰ぎさる
夏の日に会津の峰々競いつつ聳えけるかな清水手に飲む
はるけくも会津の境我が越えて越後に入りぬ夏の夕暮
小出にて只見を思う遠きかな夏の夕べの魚野川の岸
会津は尾瀬があり二三回自転車で旅しているけどどこをどういったのかもわからなくなった。山が多く坂が多いからふりかえるとその道のりがわからない、でも自転車とかで行った旅は体で記憶していることがある。それであとでどこだかわからないにしろふりかえり創作する。小出については書いたが小出からは必ず只見を思う、只見からさらに会津若松や喜多方は遠くなるのだ。実際その距離は遠いのである。ともかく本当に旅することは今は相当に演出しないとできない、無理やり不便な旅をしないと便利すぎるから旅にならないのだ。だからかえって時間もかかるし金もかかったりするのだ。何より自由な時間ないとできない、つくづく今旅ができなくなっていかに自由な旅をすることがぜいたくなことかわかった。普通の人は自由な旅はできない、わずかな暇をみて休養するだけだからだ。会社を一週間など休むことできないからだ。それだけ自由な旅をすることはぜいたくなことだったのである。でもこうした自由な旅をしないかぎり会津も広いから会津の地理もわからない、もし地理をわかろうとしたらこうした不便な旅をする、坂を越え坂を越えて旅するとある程度わかる。でも旅が終わって回想してみるとどこをどういったのかわからなくなっているのだ。車などだと余計にわからなくなる。それだけ旅したことを記憶することはむずかしいのである。
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