2010年03月01日

玉本あゆみ様へのコメント(死は愚かさの一つの終わり)

『死は一つの愚かさの終わり』から


しかし人間の愚かさは終ることがない
愚かさは人類が滅ぶまでつづく
一つの愚かさが終わり
さらに何万何十万何百万のの愚かさの始まり
ああ 人類はかくしてつづく・・・・』

http://musubu.sblo.jp/article/27303460.html


(玉本あゆみ様の文)
小林様は、とてもシビアに、神様が作られた現代社会に生きる人間の愚かさを直視しておられるのだと思います。人間は生きている間に、罪を悔い改めなければ、死しても罪に対する償いは残されているでしょう。私も職業柄、人の老いや死を真近かに拝見し、生きるとは何か、満足出来る老いとは…考えさせられます。一人では生きてはいけないから、誰かと共存していかなければいけません。メリットもあればデメリットもあります。
時代が変わっても罪びとは減少しません。
でも、自然界だけは人間の利己欲に破壊されながらも、忍耐強く姿や役割を変えません。与える事に徹し、死しても生き返る雄大な無限な命の展開を見せてくれています。自然界に学ぶべき事は、たくさんありますね。


 

・私も職業柄、人の老いや死を真近かに拝見
・し、生きるとは何か、満足出来る老いとは
・考えさせられます

私も今回は家族が認知症になったことは余りの衝撃でありそのことを延々と書いてきました。
未だに人間が認知症のようなもの痴呆になって死んでいったことが信じられない、何故なら
自分でも最後まで言っていたけど頭がいいし体力もあり他にも社会的にもしっかりした女性でしたから、看護婦から保健婦もしていた女性でした。それもあまりにも最後は無惨でした。


人間は愚かさ、罪、弱さを意識しない、そもそも自分で愚かだとか意識している、罪を意識している人は愚かでもないしまた優れた人でしょう、病気だったら精神病でも病識をもつと直りやすいとありますから自分が病気だと意識したとき回復する方向に向かっている。認知症の場合は最初自分が忘れたんじゃないかと言っていた、忘れることを意識していた、症状が悪化したら忘れたことを意識できなくなった、病識もない、自分が馬鹿に痴呆になったのにそう思わない、人間がこんなになってしまうことは信じられない、満足できる老いとかは認知症の人を見たら認知症にならないことです、痴呆にならなければ一応真人間として接してあの世に送ることができますが認知症になったら人間でなくなったのかということになりますから悲劇です

人間はいくら賢いと優れているとうぬぼれていても最後は認知症になったりするのだから人間の賢さなどあてになりません、神から見たら人間の賢さなどとるにたらない、人間が誇るべきものではない、人間はそして最後は老いは無惨です、結局は塵に帰るだけの存在です、これは延命治療とかいろいろしても無力です、人間は人間の力ではどうにもならない、最後は主・キリストを通じて神が支配しない限りどうにもなりません

・自然界だけは人間の利己欲に破壊されなが
・も、忍耐強く姿や役割を変えません。与える
・事にに徹し、死しても生き返る雄大な無限な
・命の展開を見せてくれています。自然界に
・学ぶべき事は、たくさんありますね。

忍耐強く姿や役割を変えません・・・・・・忍耐強くというとき石とか樹になるのですがこれも詩に書きましたが最近発見したことなのです、なかなか自然を理解するのはむずかしい、自然は長い時間をかけないと理解できない、老人になれば確かに自然をいくらか理解するようになる、それだけ奥深いのが自然だからです

看護婦(師)さんに病院で世話になりました、大変な仕事です、でも看護婦(師)さんの仕事はやはり女性が良かった。若々しい女性の声がきびきびして働く女性の声が元気を与えてくれた。
これは男性から見てそう思ったが女性からだとまた別になるのか?看護婦さんはやはり女性の天職なのでしょう。病院だと極自然に互いに患者同士がいたわり慰め合うことができた。そういうことも普通の社会生活ではない、競争社会ですから、
ともかくいろいろ経験しました、病院は看護婦(師)の役割が大きいです、ご努力ください。


コメント欄に書いたけど反映されなかった、実験したのでは新しい記事に反映していた
つづけて書いたのには反映されなかった、原因はわからない
だから改めてここに書いたのでご了承ください

プログ主(小林)

この記事へのコメント

ここにつつげて書いてください
Posted by プログ主(小林) at 2010年03月01日 22:20
(追記)
私も1日1日、確実に老いに向かっています。
満足できる老いとは…。どれだけ、「笑顔」で過ごせる時間が多かったか。今、やりたい事、やれる事を、どれだけ出来たか、そんな小さな積み重ねを精一杯する事だと思います。
家族介護者にとっては、人事のような綺麗ごとのように解釈されてしまうかもしれませんが、
私は認知症の方にも、残された時間、進行と共に変わってゆこうとも「一人の人間としての平等にある命」に対して、平等の老い方をして頂きたと願って止みません。なかなか、容易い事ではありませんが、具現化する努力はできます。
それから、自己満足かもしれないけれども、リラックスできる時間や感性を磨く時間も確保する努力が、どれだけ出来たか、老いていく段階の中には、たくさんの「知識」や「経験」「感性」「人間らしさ」の、各引きだしがあります。その引きだしが、老いても何かの役に立てた時、十分とは言えなくても満足出来るのではないかと。
一人では生きてはいけないから、誰かに支えてもらい、誰かを支えながら相互作用、相互理解のなかで生きていけるものなのでしょうね。
簡単には醸し出せない調和の素晴らしさを大切さを、改めて感じます。
小林様も、日常は大変な御苦労もおありかと思いますが、どうか、今後もブログでも、御活躍下さい。私は、石黒様の感性に、とても共感しております。お体に、お気を付け下さい。
Posted by 玉本あゆみ at 2010年03月02日 12:45
小林勇一様からの、お返事拝見しました。
有難うございます!

私は、兄がアルコールが原因で肝硬変で亡くしてしまいました。見当識障害もあり、他人から見れば人格にも変化があったそうです。私が知っている兄と違う兄に変わってしまいました。
でも、それも病気と人間が作った罪のせいです。認知症と兄、私と認知症家族介護者の立場や状況は全く違いますね。でも、何故、自分の家族が…!受け止められない衝撃は近しいものがあるかもしれません。そして、御家族とのコミニュケーションを大事にしている私は、御家族の立場に立った時の御気持ちを想像し考えるようにしています。もし、今は元気で明るくて強い母が、認知症になったら…認知症だからと言って、差別されたり、人格を無視されたり、用無し扱いされたらどう思うか、憤りを何処にぶつければ良いのかと思います。
母には、認知症予防を心がけてもらっていますが、それでも未来の事は不確実です。
私は、御家族や認知症の方の良き相談者、カウンセラー目指しております。兄の急死が原因でもありましたが、自分が傍にいて、心に寄り添い暗闇に一筋の光を差し込むような、お手伝いができれば…と願っております。おこがましいのですが、寄り添っていきたいと。
認知症の方も、「一人の人間」です。病気ゆえに、人格が変わり遠い存在に思える事もあるかもしれません。ましてや、家族なら、認知症を患う前の姿が強烈に残っている訳ですから、そう簡単に割り切れる事はないと思います。
私も、私の立場で少々の風力にも折れないような、小さな樹でありたいと思います。
出来る事から、コツコツ始めますね。

「痴呆にならなければ一応真人間として接してあの世に送ることができますが認知症になったら人間でなくなったのかということになりますから悲劇です」

これは、とても、とても悲しい現状でね。
認知症の人も、精神科の患者さんにも、姿形は変わっても、純粋な感受性は残っています。
認知症は、源氏物語の平安時代中期は「自然な生理」、今昔物語の平安末期には「否定的・非人間的」、江戸時代は「狂病・精神病」、近代は「厄介者」という扱い方をされました。病気である事は間違いありませんが、私は「認知症の××さん」という見方をしていません。「認知症である前に一人の人、生まれ変わった同一人物」と解釈するようにしております。でないと、先入観や固定観念をもってしまって飛び込んだり、全面的に受け入れて抱きしめてあげられないからです。どんなに、制度が変わっても
、そういう風潮が変わらない限り、御家族の精神的な負担も増す一方かもしれませんね。
そんな世の中を変えたくて、私も微力ながら、ささやかながら、活動してまいります。
認知症の方の心身は、状態にも大波・小波と波があります。私は、自分の家族が愛しいと思うのと同じく、認知症の方々が心から「愛しい」です。
何の、縛りもなく無制限に思えます。
しかし、御家族の立場は違いますから、私が死角となっていた部分での御苦労にも目を向けて、視野を広めていきたいと思います。
有難うございました。頑張ります!
Posted by 玉本あゆみ at 2010年03月02日 12:21

(追記)
私も1日1日、確実に老いに向かっています。
満足できる老いとは…。どれだけ、「笑顔」で過ごせる時間が多かったか。今、やりたい事、やれる事を、どれだけ出来たか、そんな小さな積み重ねを精一杯する事だと思います。
家族介護者にとっては、人事のような綺麗ごとのように解釈されてしまうかもしれませんが、
私は認知症の方にも、残された時間、進行と共に変わってゆこうとも「一人の人間としての平等にある命」に対して、平等の老い方をして頂きたと願って止みません。なかなか、容易い事ではありませんが、具現化する努力はできます。
それから、自己満足かもしれないけれども、リラックスできる時間や感性を磨く時間も確保する努力が、どれだけ出来たか、老いていく段階の中には、たくさんの「知識」や「経験」「感性」「人間らしさ」の、各引きだしがあります。その引きだしが、老いても何かの役に立てた時、十分とは言えなくても満足出来るのではないかと。
一人では生きてはいけないから、誰かに支えてもらい、誰かを支えながら相互作用、相互理解のなかで生きていけるものなのでしょうね。
簡単には醸し出せない調和の素晴らしさを大切さを、改めて感じます。
小林様も、日常は大変な御苦労もおありかと思いますが、どうか、今後もブログでも、御活躍下さい。私は、石黒様の感性に、とても共感しております。お体に、お気を付け下さい。
Posted by 玉本あゆみ at 2010年03月02日 12:45

コメントを書く
Posted by 玉本あゆみ at 2010年03月02日 12:56
小林様の、素直で知性ある感性は、共感というよりも尊敬に値します。
中央法規出版の方も、感心しておられました。
これからも、楽しみにしております!!
Posted by 玉本あゆみ at 2010年03月02日 14:29
誤入力がありましたので、誤った投稿(先頭と二番目の(追記)の投稿)は削除して下さいませんか?重複してしまいました。申し訳ございません。
at 2010年03月02日 12:21(先頭)
2010年03月02日 12:45(先頭の次の追記)

※この訂正のお詫びのコメントも削除して下さい。お手数をおかけ致しますが、見苦しいものにしたくありませんので宜しくお願い致します。重ね重ね申し訳ございません。
Posted by 玉本あゆみ at 2010年03月02日 21:04


>認知症だからと言って、差別されたり、人格を無視されたり、用無し扱いされたらどう思うか、
>憤りを何処にぶつければ良いのかと思います。

認知症は偏見、差別がまだ多いでしょう、確かにテレビなどでも報道しますが実際に家族でかかえてみないとわからないでしょう。どういうふうに接していいかもわからないから長年親しい人も全くかかわらなくなったのは哀しいことでした。最後まで名前を呼んでいたのに来なくなった。幼なじみであり認知症になるまでは毎日のように行き来して人がぱったりと来なくなった。かかわらなくなった。親戚も一人を除いては来なくなった。これは本人にとってもショックだった。
確かにまともに話できなくても相手がどういう人だったかはわかっているし会ってくれれば話をしなくても喜んでいたからです。一言でも声をかけてくれればうれしかったのです。それが全くしてくれないというのは悲しいことでした。ただ近くで一人可哀相だと話し相手してくれた老人がいました。その人には感謝しています。なかなか認知症の人と話を合わせるのはむずかしいですからその人は特別だった、普通いやがって話につきあわないですから、あういう人は認知症の介護に向いていたのでしょう・・・

・認知症は、源氏物語の平安時代中期は「自然な生理」、今昔物語の平安末期には「否定的・・非人間的」、江戸時代は「狂病・精神病」、近代は「厄介者」という扱い方をされました。病気・である事は間違いありませんが

ずいぶん詳しいですね、そういうことがあったんですか、一般的にボケであり特別のボケ(認知症)という病気を理解していたのか、判断していたのか、それはわかりませんでした。現代では高齢化で数がふえて認知症というのが増えた、それでこれは単なるボケではない病気だと認定したのだと思っていましたが・・・

専門の方ですから認知症のことについて詳しいのは当たり前ですが田舎だと認知症は医者に行ってもどういうふうにして対処してしいいのかわかりませんでしたし本当に困った、困った困ったと介護しているうち意外と早く死んでしまった。心残りはありましたがどうにもなりませんでした。
Posted by プログ主(小林) at 2010年03月03日 22:58
小林様

きっと、思いだすと悲しくて寂しくなってしまわれるような、御苦労をお聞かせ頂いて有難うございました。
私の近所に住んでいる独居のアルツハイマーのお婆ちゃんも同じでした。認知症だと診断される前から、話が長くて同じ事を言う、目の前に「あずき」のような小さな粒が一杯見える。故お爺ちゃんや故息子がウロウロしていると吹聴する、ガスを付けっぱなしを忘れてしまい、他の用事をして窓から煙が出る…そんな事が何度かあり、御近所の人達は「おかしい」と陰で囁きながら、離れていきました。診断を受けてディサービスに通い始めてから、状態が落ち着いたようです。それでも、御近所の人の態度は変わってしまいました。陰口を聞く度に反論をしてきましたので、今では当たらず触らずで見守っていてくれています。都会でも、専門職を含めて認知症について向学心のない人はいます。私は、世間からの冷ややかさに耐えながらも、御家族なりに精いっぱいの介護をし、その方を御見送りされたのなら悔いは残す事はないと思います。御家族の生活まで犠牲にして欲しくはありません。環境との縁もありますが、精一杯の事をされたのですから。貴重な御経験をお聞かせ下さって、有難うございました。
Posted by 玉本あゆみ at 2010年03月04日 09:54
私は、認知症介護に困っておられる方達の為に、資格を活かして、理解を深めて頂けるように田舎であろうとも、必要とされれば、何処にでも参ります。
都会は情報が氾濫しすぎていて困惑され、人間の心を軽視されがちです。都会は学ぶ環境に恵まれ過ぎているから、その有難味が分からない人が多いのかもしれませんね。
私は、認知症の方や家族介護者の味方ですから。
Posted by 玉本あゆみ at 2010年03月04日 10:03
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