2010年02月23日

無縁化社会となった原因(2)


無縁化社会となった原因(2)

●日本人のアイディンティティは土地に村にあった


日本人はもともと土地とのアイディンティティが強い民族である。日本人の姓の起こりがその土地の名、地名に由来しているのがほとんどなことでもわかる。いかに土地との一体感が強い民族なのかわかる。日本人にこれほど姓の種類が多いのはそれぞれの土地を起源として村を起源としているからである。外国では中国でも韓国でも姓は少ない、血縁関係を重んじる社会である。韓国で姓を見ればどこに所属するかすぐわかる。どこの村に帰属しているかではない、血縁関係がアイディンティティなのである。中国の村は日本の村とは違っているし成り立ちも違っている。遊牧民社会も血縁関係主体の結束を保つ、すると世界的に日本が例外的に土地との結びつきが強い民族の歴史をもっているということになる。土地との結びつきが強い、土地にアイディンティティをもつというときそれが封建制の時代を作った。土地が生産力の基本としてありほとんど農民の時代だったからである。江戸時代までは8割とかは農民であり土地に頼る社会だったのである。生産力をあげるのにはさらに土地を開墾するほかなかった。それで戦後まもなくまで日本人は土地を開墾して生産力をあげて仕事を作り出していたのである。高度成長時代から農業社会から本格的に脱した社会になったのである。そのことは旧来の土地とアイディンティティとかつながりが失われた社会となって行った。社に会すが会社になったことでもわかる。日本の社はそもそもその土地土地の神であり無数にある土地との結びつき土地とのアイディンティティを示しているのだ。だから社に賽銭をなげるのは通行税でもあるしその土地に住むときその土地の神に税金を納めねばならなくなっている。その土地の神様がかならずいてショバ代みたいなものを社に払わされるのである。そして土地とのアイディンティティが強いときは死んだら死者は以前としてその土地に村に留まり土地の神様になる。山の神様になりその土地を守るとなるのも土地とのアイディンティティがそのまま継続されるからである。それがこれまでの日本人社会のアイディンティティの基本だったのである。
日本人のアイディンティティが村であり村の結束がいかに強固であったか今でも都会の人が田舎に住めないというとき人間関係のかわずらわしさがある。それは反面結びつきが強いからそうなる。その結びつきがプラスの面として機能していたときは良かったがマイナス面として機能すると煩わしいだけのものになるのだ。

村では金を持っている旅人を殺して金持ちになったということがあったらしい、それは伝説になって残っている。村では逆に外部の人は金をもたらすだけの存在に過ぎない、それは金の象徴になっている。村の人にとっては金として外部の人は価値づけられる。村の内では金だけの価値では共同していけない、でも富が外部から見知らぬ人から無縁の人からもたらされるのである。だから村の人の意識は村に住む人と外部の人は区別される。村の外の人には非情でもかまわない、そのことは村の結束の中では非情なことをやましいことはできないが外から来るもの旅の恥はかきすてとか村から外に出ればやりたい放題だとなる。 今でも貧しい国に旅行すれば貧乏な若者まて金持ちに見られる。物価の差が十倍とかなりそうなる。だから殺される人もでてくるのである。
 
●土地から切り離された無縁化社会

無縁化社会というときまずその土地から切り離されることが起きてくる。NHKの放送でも秋田にある家は今はなくただお参りすることもない墓だけが淋しく残っていた。家はなくなり東京の片隅でその墓を守るべき人は死んでいたのである。自分の実家の墓も家はなくなり墓だけが残っている。家がなくなっても墓はそのあともしばらく残っていくのだ。ある人は財産のある家族でも立派な墓があっても跡継ぎが残ってくれない、東京に離れて墓が守れないと他人同士の共同墓に埋葬してもらうことを決めていた。墓が無縁化してしまうからそうなる。そういう人がこれからもふえてくる。土地とのアイディンティティがつながりが失う人が増えてくるのだ。そもそも神社で無縁の場を作り市を開かせたのが商売のはじまりである。特別に無縁の場所を作らないとよそ者を村に入れることができなかった。その無縁の場所がグロ-バル化したのが現代だった。


地球の裏側からでもモノは運ばれてきている。無縁なる見も知らぬ人間からモノは供給される時代である。無縁の場所が世界的に広がったのである。その土地のもっている意味は過去からすると全く無きに等しくなり土地より金のもっている価値が格段に高くなってしまった。金さえあれば別に日本で暮らす必要もないとなってしまう。もちろん今住んでいる場所にこだわる必要もないとなる。金とはグロ-バル化して無縁化すると金だけが頼りだとなってしまうのだ。人間の縁すら金で作れる。金さえあればその金が大きな金なら人を雇うことができるからそこで共同できる。金があれば待遇がどうであれ施設に入れば孤独死にはならない、最低のめんどうはみてくれるとなる。地域を見直せとかいうとき経済の世界が地球の裏側まで経済活動が広がっていることも事実であり元の自給自足経済になることは不可能なのである。ギリシャが財政的に破綻するとか世界経済にまた打撃を与え株が下がるとか騒いだ。自分も多少株をもっているからまた株が下がるのかと思った。そもそもなぜギリシャという小国の経済が世界に影響するのか日本まで影響するのかぴんとこなかった。ギリシャに行ったことがあるがここは観光しかない、菜の花とロバと遺跡の国であり産業がない国だった。だから今のような不況だと観光は一番影響受けやすいから財政破綻状態になったこともわかる。グロ-バル化とは村とかの自給自足経済とはあまりにもかけ離れている。ギリシャはどうするとかも考えざるを得ないのである。

●無縁化社会の老後

そして今老後の問題となるとついの棲家をどこにするのか、どうしたらいいのかと問題になる。
墓の問題もそうである。最後に行き着く場所が墓であるがそれも跡継ぎがいないとが分断されてしまっている。村で一体として暮らしている場合は村の者がお参りする共同墓に埋められていた。個々の墓に家族墓になったのは明治以降である。介護にしても一旦病気になったりしたら助けになるのは近くなのである。もちろん車社会だからこれも近くは無縁化しているが車でも隣の市から車で通うとなると結構な労力になるのだ。つくづく病気とか介護になると老後は近くが大事になる。世界の果てまでグロ-バル化した行き着く先は一番身近な世界が頼りになるというのも皮肉である。グロ-バル化した無縁化社会でも老後になると非常に狭い世界が頼りになってしまう。その矛盾が現代の無縁化社会となってあらわれた。 会社から退職して切り離されたら会社の縁から無縁化する、では地域の縁があるかと言ったら都会では余計にない、そういう縁を作ることはまた容易ではない、お手伝いさんとかヘルパ-に来てもらうにしても誰かわからない人だとその人に頼りだまされ殺人まで起きている。簡単に家族の中に他人を入れることはむずかいのだ。金のためには簡単に殺されるとまでなる。村の外部の人ではない、逆に外から入ってきた無縁のものに家族が殺されるという被害にあうのが現代である。無縁化社会というときつくづく介護で経験したが親戚もあてにならない、むしろ金の方が頼りになるというのも無縁化社会を象徴していたのである。でも金だけを頼りにするとき介護などでは解決しえない問題が起きてくる。介護などは日頃からの信頼関係が大事になる。他にも困ったときはどうしても日頃からの関係が大事になる。「困ったときは遠くの親戚より近くの他人 」になるのは変わっていない、地球の裏側と経済的に結びついても困ったからと地球の裏側から助けがくるけではないのだ。もちろん物質的なものは送られるかもしれないが介護とかなると人力でありモノだけ送られてきても助けにならないとなる。 老後の問題は最後のアイディンティティを土地にも求められない、家族に求められない、皮肉なのは共同墓は老後になってはじめて知り合った人たちが作った墓だった。そのことが現代の無縁化社会を象徴していたのであ。土地にも家族にもアイディンティティが求められず最後は見知らぬ他人同士が共同せねばならぬという皮肉である。これは個々人の問題ではなくグロ-バル化経済とかも影響した結果だったのである。



 

 無縁社会になった原因(3)
http://musubu.sblo.jp/article/40563352.html

 

NHKの無縁化社会を見て・・・
http://musubu.sblo.jp/article/35041457.html

posted by 老鶯 at 10:44| Comment(0) | TrackBack(0) | 時事問題の深層
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