2010年02月14日

五本松の枯れた松

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夕闇の雪に映えつつ枯れし松


一本の枯れにし松の雪に映え我がより帰りぬ五本松かな

夕闇に枯れにし松の一本や標となおも雪に映え残る

魚売りの女(ヒト)のしばらく来ずなりぬ積もれる雪や病なるらむ
 

五本松の枯れているけど一本立っている松は今や不思議である。90何歳とかで生きている老人も今は多い、その松ににあっている。あの松を見ると必ず家でもそうだがそうした老人をイメ-ジする。松は極めて人間的なのである。これが高い樅の木とか杉だとかなるとそうはならない、松は人間が立っているように昔から見ていたのである。あの松はいつか倒れるのだろうか?
まだ死んだわけではない、生きているのだろう。なんとか生きているのだろう、これは死にかかった老人にも言える、倒れれば死ぬのか?あのように立っている限りあんなに枯れていても生きているのか?ともかくあの松は今や不思議である。90才生きているとどうしして生きているのか自分でも不思議になるらしい、そんな年を生きている本人さえ想像しなかったからである。

 
松川から来る魚売りはまた一カ月くらいこない、何カ月も来なかったときは病気だった。また病気になったのか?一週間二回でもくると親しくなる。姉が認知症になったとき「さかな、さかな」と言っていたのは魚売りのことだった。何でも直前のものを忘れるのに一週間に二回来ただけでも忘れなかった不思議がある。認知症の人はこうして長い間定期的に来る人はやはり覚えていたのだ。それで死んだとき線香をあげてもらった。今どき商売でもス-パ-だったらそこはモノを買うだけである。人と人が通じ合うためにモノがあるのではない、モノがあって人がある。膨大なモノがあり人は見えない、そして人はもってくるモノによって判断される。モノがいいとか高いとかモノの値段が人の価値にもなっているのだ。でも戦前から江戸時代となるとモノより人間が主役だった。富山の薬売りとかでも薬を売っているだけではない、定期的に来るから親しくなる。人間と人間の付き合いが生まれる。江戸時代辺りは人と人が親密になる世界であり商売にしてもモノだけをやりとりするのとは違っていた。モノの前に人間があった。今はモノが膨大にあふれた結果、人は見えない、モノを通じて人があるのであり人を通じてモノがあるのではない、無縁化社会とはモノを金を通じて人間がある社会のことなのである。
 
車だとどうしてもイオンでも小高や鹿島から集まってしまう。電動自転車すら便利だから原町で買物するようになった。すると小高や鹿島はますますさびれるのである。車社会は大きな所に集中してほかはさびれてしまうのである。でも一カ所で買物すると便利だからそうなってしまう。買物がこんなに手間だとは思わなかった。これだけ贅沢になっていたのである。魚が買えないからオカズを用意するのがまた大変なのである。オカズはなかなか作れないからである。
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