これは昨日のつづきである。5月で桜咲いた。5月で日中の気温が5度だった。稚内は6月で桜咲いていたのだ。日本列島はいかに長いかわかる。燕はその北海道の最果てまで飛んでゆく、一カ月間の旅はやはり長かった。終わって見れば旅はただ記憶だけとなる。その記憶も忘れやすい、自転車で行こうがやはり忘れやすいのだ。ただやはりこれだけ旅したんだから余りにも忘れるのがもったいないとなった。だからなんとか思い出して何か記念に残したいとなるのが人情である。その一つとして俳句とか短歌がある。
北海道は空気そのものが違うのだ。日本で唯一大陸的な場所である。北海道の広さがあって日本は豊かになった。北から南までミニマムに地球を凝集したような列島ができたのである。だから日本列島だけでも旅するのに一生かかるのだ。それでも見切れない場所がいくらでも残る。日本だけでも広いのだから外国だとなおさらその広さを知ることは不可能である。
北海道には船で行きやすいので梅雨の時期に必ず行っていたから風景は思い出す。その思い出したものをア−ト化する作品化することはやはり生々しく脳裏に浮かんでこないとできない。一部は成功したがやはり生々しい現場の記憶が薄れてゆく。
芭蕉の奥の細道は実際の旅を基にしてもかなり創作的意図的に作られた芭蕉の心象化した作品なのだろう。だから常に歌枕を基にして構成されている。すでに歌枕がありその歌枕を基にして創作されていた。外国旅行にはこの歌枕が欠けてくる。歴史的意味もわかりにくい、だからこれだけ外国旅行しても芭蕉のような紀行文は書けないのである。芭蕉は自然没入型の詩人であり蕪村は自然没入型とは違う客観的な自然鑑賞型詩人である。一茶は土着的、生活派の詩人でありこの三人の個性は際立っている。この三人の評論を書きたいのだがなかなかその書けない、短い文ならプログのように気まぐれに書ける長くなると書けないからである。
とにかくこのプログが一行くらい書いても一日文書いたようになっている。たいがい二三行書いて終わっている。一記事ごとにグ−グルでアクセス解析されるがその一記事の内容が貧弱すぎるからグ−グルでもプログの記事を上位にアップしないとかプログをアクセスしないで検索するようになる。今日も一日分をなんとか埋めたというのが本音である。
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