雪の松島-俳句短歌-政宗のこと

走り去る電車や雪に椿かな
みちのくに金の障壁画冬鴎
抹茶飲む観欄亭や冬障子
鴨群れて観欄亭や冬障子
秀吉の威勢及ぶむ冬障子
政宗の伊達も威勢や冬障子
松に雪観欄亭に藩主の座
さしだせし名器の茶碗松に雪
みちのくに島の少なし冬鴎
松島や雪に散り赤し椿かな
尋ねざる奥松島や雪となる
松島や雪また雪や夜の更けぬ
塩釜に海見つ墓所や冬深む
雪となり夕べ遠しや石巻
北上川上の遠きや冬の月
松に雪かもめ飛びつつ松島や瑞巌寺の門古りて暮るるも
松に雪鴨の群れつつ波にゆれ松島暮れて旅人の去る
小松島小さく見えぬ幾度も松島たずね冬のくれかな
ねんごろに茶碗を手にし島望む観欄亭の冬のくれかな
老木の枯木の磐に根づきつつ雪の積るや松島の海
文永の碑のあり遠き松島は祈りの島や雪のふるかな
大いなる港ととならむその跡やみちのくの海に雪のふるなり
夏の日に一度はたずぬ鳴瀬町松に家古り冬となるかも
石巻冬に遠きや葛西氏の城跡古りぬ河口の島に
葛西氏は滅びけるかな石巻その跡たずぬ冬のくれかな
勝つものの陰に滅びしもののあり政宗たずぬ冬のくれかな
さらに遠し石巻より平泉北上川 に雪のふるかな
小牛田の碑相馬にあれや山神を祈り祀るや冬深むかも
歴史を知るというとき例えば伊達(だて)は派手好みとして中央に秀吉などに見せて有名になったけど実際は東北は貧しい農民がほとんどであり財力はなかった。それでも政宗は財力あるように装うために伊達者を演出した。そういう歴史的背景を知らないと歴史は全く違ったものとして解釈してしまう。また逆に秀吉の時代でもみちのくのことは情報が入りにくいからわからない、すると派手な格好した伊達者がいるので陸奥は裕福なのかと思うこともある。一方で葛西氏などは秀吉を見くびり秀吉を甘くみて滅ぼされた。その当時社会情勢を理解すること自体むずかしいことを物語っているのだ。地理的に隔絶された世界であり時代の情勢を読むことはむずかしいからそうなる。葛西氏は相当な有力な氏族でも滅びた。石巻を中心にして領地をもっていたが滅びてしまった。政宗は常に脚光をあびるが葛西氏はその陰に歴史の地層の下に埋もれてしまったのである。こういうことは歴史には常にある。政宗は余りにも華やかであり常にスポットライトをあびる存在である。でもその陰に必ず滅びて埋もれた人々がいた。観欄亭にしても冬だと冬障子であり確かに金の障壁画が残っているが秀吉の豪勢な安土桃山文化からすればとるにたらないものとなる。だからむしろ冬障子というものがにあいだとなる。みちのくには豪勢な城も文化も残らなかったのである。平泉にしても金色堂だけが辛うじて残ったように関西や京都と比べるとの規模は余りにも小さいのである。ただ政宗の時代に世界まで羽ばたこうとしたことは政宗だけだった。それだけの世界的視野を陸奥でもち得た人だったのである。
今回、雪ふってきたので奥松島から石巻に行かなかった。この頃何か近くでも遠くなっている。一日泊まることさえ容易でないから近くでも遠くなってしまった。奥松島から鳴瀬町から石巻まで自転車で行った。石巻からは必ず北上川をさかのぼる、すると石巻から平泉までイメ-ジする。それは北上川を通じてイメ-ジされるのだ。石巻からは平泉は北上川を通じて結ばれている。そうでなくても石巻からは平泉をイメ-ジする。芭蕉も石巻から平泉に行ったからである。石巻は地理的に特殊なのだ。その港は江戸まで通じていた。仙台平野の米が運ばれていた。
これは隅田川でありここでは船の行き来が多かった。北上川はそんなに多くはない、でも川が道として結ばれていた。 でも平泉となるとやはり相当奥なのである。それで「北上川上の遠きや冬の月」とかイメ-ジして作った。陸奥は奥深いのだ。平泉よりさらに奥に広がっていたのが陸奥である。芭蕉の奥の細道でみちのくの地理的感覚の基礎が作られた。だから石巻は重要な地点だったのである。宮城県関係の神の碑が相馬には多い、館腰宮やその他いろいろある。それだけ宮城県とは密接な関係が江戸時代からあった。相馬藩は伊達藩との関係が深いのである。地理的にも一体化しているのだ。いづれにしろ冬になると近くも寒いとか雪がふるとかさらに私的な事情で家から離れられないとかなり遠く感じてしまった。冬はやはり近くでもこれだけ交通が発達しても遠い感覚になる。新幹線で近いじゃないかともなるがやはり冬は遠出しにくいから遠くなる。いづれにしろ宮城県の神社が江戸時代では相馬藩の人がお参りしたとしてもやはり遠いのである。ともかく今日は夕方から松島が雪になり奥松島も雪になり石巻も雪となり平泉はかなたであり遠く感じた。でも相馬の方は夜は晴れていたのである。東北でも広いから遠いなと感じることがある。それが普通の感覚なのである。