郭公や難なく過ぎぬ関所跡
最近読んだ「きよのさんと歩く 江戸六百里」は面白い。これを読んでわかったことは江戸時代の旅は今の外国旅行と同じだったことなのだ。違いは言葉なのだが方言がありこれで通じなくなることでもにている。そして藩が違い別な藩に入ると絶えず両替しないといけない、いろいろな通貨があり通用する金が違っていた。これも外国とにている。ヨ−ロッパではいろいろ国があり国が変わるごとに両替してそのたびに手数料とられていた。藩が一つの国になっていたから江戸時代は外国を通り抜けると同じだった。藩札なども使われていたがこれはその藩でしか使えないものである。外国でもカンボジアとかの紙幣をもってきたがただ記念になるだけだった。
それから街道の宿場町は飯盛女の売春ロ−ドだった。とにかく江戸時代の女性の職業は売春だった。これも外国とにている。特にアジアの貧しい地域はまさにそうである。外国人が買春に来ているのが多い、買春ロ−ドになっていた。アジアでは旅とは買春なのである。東北でも郡山とか本宮とか街道はそうだった。江戸でも遊女が多かった。これは今の時代の感覚では計れない問題であった。貧乏の結果、女性の仕事がないからそうなっていた。
一つ家に遊女も寝たり萩と月 芭蕉
これは日本海側であり日本海には港が多いから港には遊女が多かった。芭蕉はここで遊女に接したことを書いているが他でも遊女は飯盛女は宿場で客引きしていたから出会っていた。
これはたまたま遊女とあったというのではない、必ず遊女は旅でも必ず合うものだった。ただこれが名句となっているのは日本海という風景とマッチしたからだろう。飯盛女が客引きしているようなところではこの旅情はでてこない、江戸時代の俳句は今の感覚で鑑賞していると別なものになっている。遊女は今の売春婦とは違う、社会に溶け込んだ遊女なのだ。それも貧しさ故になっている。他に仕事がないから遊女になっている。そこがやはりあわれだという感覚になる。だからこそ詩的なものとして見ることができた。遊女は社会の中の一つの風景でありそれが日本海という自然とマッチしてこの名句が残ったのである。
とにかく関所を通りぬけるのが厳しいとなると関所破りがありそれを案内する人がいたというのも日本などに来るために偽のパスポ−トを大金で作る業者がいたり案内する人までいるのは同じである。関所は国境と同じであった。関所はだから歴史を記す場にもなる。関所に関係する残された書類を調べるといろいろ当時のことがわかってくる。眼の治療のために関所を越えた資料も紹介されていた。江戸時代の研究に関所はかかせないしここで具体的なことがわかりやすい。ただ関所があっても関所破りも常習化していたからそれなりに自由な旅もできたのである。
郭公の心になおもひびきけれ自由なる日の北海道の旅
郭公がどこまでもひびいていたのが北海道を一カ月旅したときだった。
この時は本当に旅ゆく先々に郭公の明るい声が北海道の大地にひびきわたっていたのだ。
2007年03月10日
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