2010年02月01日

腕一本の誇りに生きた時代と仕事を嫌い鬱病になる時代

 腕一本の誇りに生きた時代と仕事を嫌い鬱病になる時代

 

江戸時代の職人の世界では腕一本で勝負していた。 大工調べでは、ある大工のところへ同僚がいくのだが この前俺がいったらあいつ本を読んでいるんだ 字が読めるだけじゃなくて書けるのだ ヤナ奴だね ことによると算盤もはじけるんじゃなかろうかと問いただしたらすまねえって謝るのだ
要するに、学があるのは職人として恥ずかしいという感覚だ。

http://www.nescom-asuka.co.jp/teacher/soliloquy/japan/beautiful.html

例えば、飛騨には昔から「貧乏したけりゃええ大工になれ」という諺がある。高山に近い国府町の岡村利衛門邸を作った広田藤兵衛という大工は、施主から与えられた材料で仕事を始めたが、どうしてもその材料に満足できず、色々工夫してみたがうまくいかない。そこで施主には黙って、高山八軒町あたりの材木店へ足を運び、やっと気に入った材料を見つけて普請した。そして、何喰わぬ顔で仕上げて帰った。
どっちみち、大工は貧乏するようにできている」という言葉を残して。こういう言葉の奥にひそむのは、すさまじいばかりの「誇り」なのである。

(飛騨の匠)
http://www7a.biglobe.ne.jp/~fujii/s_hidatakumi.html

 男一匹、銭を持ってる訳じゃない。境遇に恵まれてる訳じゃない。ただ自分を信じて、腕一本で、たくましく根を張る伊佐次の生きざまに胸がすく。

戦前は職人が腕一本で多くの会社を渡り歩くのが当たり前であった。これくらい短い歴史の中で年功序列・終身雇用・首にされにくい制度が日本の文化によるものだというのは無理があると思う。
 昭和の日本には、旧きよき時代を腕一本で支えつづけた男たちがいた。 頑固一徹に磨き上げられた熟練の手技。 愚直なまでにひたむきに昔ながらの手仕事 ... 昭和の男たちは自信と誇りに溢れていた


   職人は腕一本の人であり今でもそういう人はいる。そういう人をまじかで見たとき今も腕一本の人がいると実感した。前にも書いたけどその人は庭作りもできるしリホ-ムできる大工であった。いろいろできるからめずらしいし仕事できる人だと見ていた。腕一本というとき腕が太くないと力仕事になるから職人にはなれない、畳職人でもそうだし職人は腕を使うのである。戦前から江戸時代にさかのぼるとそういう腕一本の職人が巷にあふれていた。その人たちは気っ風が良く威勢が良く職人気質であり町の中を誇らしげに自信に満ちて歩いていた。こんなことをなぜ今思うのかというと今はそういう仕事に誇りをもっている人が少ない、見えない、絶えず聞こえてくるのは仕事への不満、こんな仕事したくない、給料が安くてやっていられないとか不満ばかりなのである。職人の世界でもそうだろう。「大工は貧乏するようにできている」・・・貧乏より仕事に誇りをもち仕事にひたすら精を出す、そんな人がいたこと自体不思議になる。大工でも今は会社に雇われている人がいるのだから月給を給金をもっと高くしてくれとなる。自分の収入に今の時代満足している人はいないのである。「腕一本オレはどこに行っても食える」昔は一つの会社に勤める終身雇用などない、そんな保証を求めない、腕さえ良ければ仕事はある、それが誇りとなっていたのだ。一般的に仕事に誇りをもつというとき戦前から江戸時代の方がそういう人が多かった。まだ仕事は細分化されていない、職人でも一つのもの完成品として作っていた。一つの部品を作るのではない、完成品を作っていたことにある。字が読めなくても算盤ができなくても良かった。腕一本仕事一筋に励んでいれば良かったのである。仕事に誇りがもてないということはかなり深刻である。仕事が人生でもありもしその仕事に誇りがもてないとすると人生そのものが否定されるからだ。それで仕事しないニ-ト、フリ-タ-などが増えたのかともなる。


仕事してオレは仕事に誇りをもっている、腕一本で生きている、給金は安いけど仕事が生きがいなんだという人は極めて少ない、嫌々ながら仕事して鬱病になったとか鬱病になる人が実に多い、それは仕事に誇りがもていない、仕事に充実感がないことなど日々の仕事に原因しているのだ。仕事に満足しない人は賃金が安いと訴えることになる。目的は仕事ではなく賃金を多くもらい別なことをすることなのである。なぜ現代の文明の空気が濁っているのか?爽快感がないのか?仕事に誇りをもてない人があふれているからだ。こんな給料で仕事していられるか・・・そういう声しか聞こえてこない、それは否定できないにしろ社会全体がどんよりとした曇り空、鬱病的空になっているのは仕事に満足している人がいないことなのである。仕事がいやでも金のためにはしょうがないとかそういう人が日々仕事しているからこの世はますます鬱病的になっている。出版社で売れる本を作れと言われできないからとやめた人が鬱病になった。売れなければ価値がない、その人の作るものも価値がないとなることが多い社会である。売れなくても価値あるものを作り出すことに意義がある、それができれば鬱病にはならない、現代はまさにそういう点で病的であり社会の空気も鬱病的に濁っているのだ。「腕一本どこでもオレは生きてゆく」そんな颯爽として生きている人がいないのである。ニ-ト、フリ-タ-、派遣と比べると余りにも違っている。そういう人たちがあふれている社会と腕一本で生きてゆくという人があふれている社会はあまりにも違っている。仕事に誇りをもてない人が余りにも多すぎるのである。

働いたら、負けだったのか。
俺はマンホール開けては中に入る仕事をしているが、
もう腰をいつやられるか心配で心配で。
着ている服は役所と同じだから公務員と思われているかもしれんが、
派遣会社からの契約社員で、保険も、年金も手取りの17万から出さなければならない。
腰など痛めてしまったら、労災も出ないだろうし、会社からは放り出されるだろうし
考えると鬱になる。
もう安月給でマンホール持ち上げて臭い中に入るの嫌なんだよーっ。
こんな仕事についた俺はまさに負け。
働かない方がまだいいかも。


マンホ-ルだけではない、こういう人が現代では多いのである。月給が安いこともある。それより仕事に誇りがもていなことが日々憂鬱になっている。それは医者の世界でもあれだけ崇められている人でも給料が少ないとかいろいろ不満なのである。それは逆な見方として自分の腕に誇りがもてないからなのだ。むしろ医者自身より機械の方が優秀なのじゃないかとか思っているかもしれない、オレなんか偉そうにしているけど人間のほんの体の一部しかわからない、でもわかったように偉そうにしていないと医者はまずい、医者もこんな給料じゃやっていけないよ・・・とか必ず金の問題としてすべてが提起されるのが現代なのである。年収一千万でも不満なのか?やはり不満なのだから今の時代、自分の仕事に心から満足している人はいないのである。
要するに自ら働いているのではない、働かされている、働きたくないのだけど金のためにしょうがない、食うためにはしょうがない、人に使役されてもしょうがないとかそうしたいやいやながらの労働に満ちているから鬱病の時代なのである。その影響は社会全体に及んでいるから空気まで濁ってしまうのである。


秋日和(かっこいい、粋な鳶職)
http://blog.sakura.ne.jp/pages/my/blog/article/edit/input?id=33101295

posted by 老鶯 at 16:17| Comment(0) | TrackBack(0) | 経済社会労働問題
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