2010年01月05日

聖書の言葉の謎(善行を知るのは神のみ?)


天に宝を積め(マタイ)
http://nagosui.org/Toseisho/daily-words/97

 
●報酬ないのが本当の善行? 
 

昨日書いた義理人情に厚い老人のことのつづきだけどその人がしたことはそもそも善行をしようとしてしたのではない、オレはこれからあなたに善を愛をほどこすとかそんな大げさなことではない、ボランティアとかでも宗教団体でもそういうことが多すぎる。お前のためにしてやるのだから感謝しろとかだから俺たちの団体に入り支持しろとかなる。その人はたまたま善行をしたのであり意図したものではない、「右の手のしていることを左の手に知らせるな-マタイ6-3」この老人はそうした善行を成す意図もないしまた善行をしている意識もそれほどなかった。ただかわいそうだなと認知症になった姉のことをさけることはしなかった。おかしくなったけど話をあわせてくれた、というよりはそれは強制的なものでもなかった。例えは福祉関係となると介護関係でも実際は強制的であり金になるため、生活のために仕方ないとか、みんな強いられて福祉の仕事に就いているのだ。それは賃金労働でありだから当然報酬をもらうのが当然であり生きてゆく手段でもある。現実に福祉関係では福祉を口実に施設でモノを高く売りつけているとかいろいろもうけるための工作をしている。福祉でもそれがビジネスとなり仕事となれば誰だって報酬を追求しているのだ。そもそも仕事で報酬を追求しないこと自体ありえないし誰もしないだろう。
宗教団体でもあくなく報酬を追求している。現世利益を追求している。つまり天に宝を積むことではない、地に宝を積むことに毎日あくせくしているのだ。それが仕事であり生きることだから悪いとは言えないのである。それか普通の経済活動であり日々の仕事なのである。報酬を否定したら生きていけないからだ。医者だろうが福祉関係でも利益をよりよい報酬を追求している。だからこそ介護士は仕事がきついわりには報酬が少ないとやめる人が多いのもわかる。そんな過酷な仕事を無償でやれというのかと言ったら誰もしなくなる。そしたら誰も世話しない膨大な弱者が放置されることになる。だから聖書で言うような善行をやれとなど言えない、ただ本当に聖書の言葉はわかりにくい、天に宝を積めと言っても天に宝など積めるのか・・・となる。これは明らかに死んでも人は死なず天で生き続けることを想定しての発言なのだ。ところが人はこの世のことに執着して生きるのが普通であり天とはいかなるところか誰も知らない、そもそも人間は死んでも生き続けるのか、そのこと自体自覚しえないのが普通である。だからこそ人間はこの世がすべてだと思いこの世の価値観でもって日々生きているのだ。天に宝を積め神が報いて下さるということよりこの世での現実としての報酬を得たくてみんな日々あくせく働いている。


●善行を知るのは神であり人間ではない 

 

だからこの言葉一つとっても聖書は実際は全く不可解なものとなるのだ。聖書の言葉をわかりきって説いている人自体も本当にそれを実行しているのか定かではない、誰も報酬なしでは働かないし働くことが成り立たないからである。ただ善行したとか善行しろとか声高に言っているところでは善行はない、そもそも「右の手のしていることを左の手に知らせるな-マタイ6-3」
隠れた行為を神は見ている・・となると誰も人間の善行を知るものがないときそれが本当の善行となっているからだ。それは今生きている人間にはわからないし天でしか死んでのちしかそのことがわからないのである。それがこの世で善行と認められたとき善行でなくなっているからだ。昨日書いた私自身が経験した具体的な例からするとその人は無意識的に善行をした。報酬を得たとしてもわずかなものである。実際に私は他の人には多額の金を報酬として与えた。不思議な話はその人は借金までしてきたからその報酬がこの世で過分に得て借金だけが残ったという不思議があった。恩を返すからはじまって恩を着せる遂には最後は借金だけが残った。報酬を過分に受け取りさらに過分に受け取りそれが借金として残ったという不思議がある。むしろ人の弱みにつけこみ報酬を過分に得たとさえいえる。あなたを助けたんだからそれくらい当然でしょうとなる。こういうことは普通にあるしとがめることともならない、絶えず人間は報酬を要求されているしそれが仕事となっているのだ。ただその時そんなに過分の報酬を得たら天に宝を積めとか天で報いを得ることはありえない、この世ですべて報酬は支払われてすでに借金まで残してしまったからだ。いづれにしろ現実はそういうものであり神が認める善行などありえない、というよりはこの世では善行は明確化されない、知り得ないのが善行なのである。私が接した恩になった老人でもかえって報酬を得ないならその人の感謝はいつまでも残る、心の中に残る。いくらかの金を与えてこれで恩は返した報いは与えたのだからこれで貸し借りはないから終わりだ。それよりも報いを得なかったから感謝され続ける方がいいとなる。その感謝が天での報いににている。この世で金銭であれモノであれ報いを得たものはあの世では天では何も得られないとなる。

 
●来世に天に生が継続されてこそわかること
 

このように聖書の言葉わかりにくい、この世の価値観と全く異にするからだ。そこでは人間は死んでも天が確実に存在しない限り理解できないものである。その天のことが地上の生活から全く別の世界であり理解しにくい、全く見えないからそうなっているのだ。もし天のことがありありと見えればそういうことかならば死後の天に重きをおき地上の価値に重きおかない生活ができるのである。でも人間は決して生きている間は現実の価値観でしか生きられない、また人間が死ぬと全くその人の存在がどこで継続しているのか全く見えなくなる。そのつながりを求めることもできなくなる。そのギャップが大きいから人間は現世の価値観に左右されて生きている。ただ今回の実際の例からそういうことかと理解できるものはある。やはり現実の生活に聖書でも読み解くヒントはある。それは卑近な例でもそういうことかとわかる場合がある。
このようにもし無意識的にこの世の善行が報いられるなら逆に借金などをして返さないものはどうなるのか?たいがい借金も死んだら終わりだ、御破算だとなるのが普通である。でも天ではこの世で借金を返さないものは何十倍にして利子がついて返さなければなくなるかもしれない、借金を返すための労役を課せられるかもしれない、もちろん罪を犯した人も天で裁かれるとなるとその裁きは過酷なものとなる。もし人間が死んでも天で生が継続するならそうなる。でも普通はこの世の生は一旦死んだら御破算になると考えるのが普通である。天まで死んでまで生きることを具体的に考える人はいない、だからこそこの世から罪がなくならないのだ。神は天と地を創ったというとき人間には地しか具体的に見えない、天は仮想であり具体的に見えない自覚できないから聖書の言葉がわかりにくいのだ。ただこの世ですでに悪の報いを得て死んだ人も多い、子供からも縁を切られて無縁仏になり墓参りすらされくなった。またある常識もなにもい女性の顔を見たらなにか今になると奇怪だった。顔に現世の悪しき生活の痕跡が記されたのかもしれない、それが最初は良くわからなっかった。その人も一応親戚になっていたからいい人だと思っていたのである。でも何であんな変な顔になったのかと思う、別に悪人という顔ではないが奇怪な顔だなと今になると思うのである。すでに50年も生きているとその人のこの世での生活の履歴が顔に刻まれ記されるかもしれない、ただ顔をみぬくことは暴力団のような一見みてわかるような場合しかこの世ではわからないだろう。福祉関係の人も同じである。福祉の仕事をしても善行しているけではないのだ。あくまで日々の糧を得る報酬を得るための仕事でありビジネスでありそれは善行とは違ったものだから神から見れば評価できないとなる。

 

寝たきりでもボケない人-義理と人情の老人
http://musubu.sblo.jp/article/34558623.html

posted by 老鶯 at 22:58| Comment(0) | TrackBack(0) | 聖書の言葉と詩など
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