2010年01月04日

寒椿(寝たきりでもボケない人-義理と人情の老人)


寒椿ぼけずに生きる寝たきりも

療養病棟で一年もいる老人を見舞った。病院にそんなにいるとどうにかなる、ボケる人が多いというのもわかる。でもその女性の老人はボケていない、はっきりわかっているので驚いた。
ぼけたら認知症になったらまずそんなに親しくない人、家族でないなら見舞っても誰かわからない、その人がどういう人かもわからない、認知症は過去との記憶の継続がなくなるのだ。
だからその人がどういう人だったのか理解できない、特に最近知った人は理解できない、昔から長く継続してつきあっていた人はわかる、幼なじみでも遊んでいたとかその人は老人になってまでつきあいが継続したのだからわかる。でもその人は認知症になってから全く来なくなった。他にも子供の頃からつきあっていた親戚もこなくなった。そこに入院している老人は不思議だった。認知症になって頭がおかしくなっても話をあわせてくれた。おかしくなったことを知っていたのである。かわいそうだなと言って話をあわせてくれた。変なことを言っても嫌わずにあわせてくれたのである。だからその人のところにだけは毎日のように行っていたのだ。それで助かった面があった。その人には特別世話になったわけでもない、金を全と貸しているくらいだった。でもその人は律儀であり馬鹿正直なところがあり必ず少しの金でも感謝して返していたのである。そして感謝もしていた。世話になったといって姉がおかしくなっても普通に相手していたのである。たいがい認知症になると嫌がるのが普通だから不思議だと思っていた。あとでおかしくなったことを知っていてかわいそうだとつきあってくれていたのである。認知症の人を家族さえかわいそうだと思う人は少ない、嫌悪されるのが普通である。だからこういう人は特殊であった。

それよりその人の性格自体が現代では特殊だった。わずかの金を貸したからと感謝している恩を感じる人はいない、良く姉は貸していたけど誰も感謝しない、でも返さない人がいたからいつも金を返してもらうのに苦労していた。人間はいくら世話したって恩をいつまでも感じている人はまれである。恩も忘れるのだ。また恩を返す人もまれである。だから恩を徒(あだ)で返すとかもなる。恩と義理など日本人の堅苦しい昔の言葉になっている。恩とか義理もすたれたのではないか?そんな古いことを今や守る人もいない、でもどこの国でも昔から伝えられたモラルはあった。恩と義理を守らないということはその代わりにどういう道徳がモラルで生きるのか?恩受けても恩を感じない、恩を返さない、感謝もしない、そこには荒廃した人間関係しかなくなる。人のために何かするものは助けるものは馬鹿だともなる。そんなことをししても一文の得にもならないとかなる。現実そうなってしまったのが現代の社会なのだろう。だから索漠とした潤いのない世界となっている。義理も人情もない社会となっているのだろう。だから宗教などありえない、宗教の目指すものは余りにも高すぎるからそうした恩とか義理、人情もない人はとても宗教の愛とか慈悲など何かをしることすらできない、宗教団体にもそんなものを追求していない、自分の利益だけを権利だけを追求しているだけである。その人は一見馬鹿のように見えても日本人の古いタイプであり恩と義理と人情の人だったのだろう。だからあまりにも珍しい特殊な人となっていた。むしろこうした人が特殊な例外的になったということ自体、日本人の良さがなくなった。明治人にはこうした人が多かった。明治は本当にあらそる意味で遠くなった。人間そのものが明治人と今の人ではあまりにも違っている。今の人はあまりにも利益人間一方になってしまった。それもそういう社会なのだからやむをえないいえばそれまでだがそういう昔からあったモラルを馬鹿にして自分たちが昔より進歩した人間だと思っている。でもモラルの面では後退しているのだ。だから人間はいくら科学技術が進歩しても人間そのものが変わらないというのは本当である。


こうしてその老人のことを自分が生きている今も世話になったとか感謝している。何かその人のためにしてやることもできなかった。それは見舞いに行ってちょっと金をやるくらいでは返せないものである。ただ一方で多額な金をやった人はそれなりに返したとかなる。ところが恩とか全部返せない方がいいのだ。恩になった感謝するという心が大事である。なぜならその心はいつまでも金銭でも返せないものとしたら死んでも継続する。死んでも感謝の心が継続するということは恩になったことを忘れないことでありその人を思いつづけることになる。その方がかえっていいともなる。これだけの金を払ったのだから恩は返したというよりいつまでも金では返せない恩を継続された方がいいともなる。何故なら他人が死んだらそんな恩などすぐ忘れてしまうからである。いづれにしろいかに自分が困った状態にあったか理解する人はいなかったし助けてくれる人もいなかったことをこれは物語っていたのだ。自分が困った時しか人間は助けてもらうことに感謝しない、それは家族さえそうである。介護とかになると家族でも一人の人にまかせられる場合があり助けがなくなるからだ。


ともかく人間はぼけることとぼけないこと認知症になることとならないことの差が大きい、これは一見たいしことのないように見えるが全く違っている。認知症になったら人間失格である。人間として通じなくなる。この人はだから本当に人間なのだろうかという疑問、廃人になってしまったのではないかとか見るようにもなる。あんな寝たきりでもあれだけわかっていれば恩になったからどうだこうだとか通じているのだから人間としてやりとりもできる。認知症の人にはもはやできない、全部できないというわけではないが人間として通じなくなるから悲惨なのである。

 
聖書の言葉の謎(神のみが善行を知る?
http://musubu.sblo.jp/article/34578059.html
この記事へのコメント
コメントを書く
お名前: [必須入力]

メールアドレス:

ホームページアドレス:

コメント: [必須入力]

この記事へのトラックバックURL
http://blog.sakura.ne.jp/tb/34558623
※ブログオーナーが承認したトラックバックのみ表示されます。
※言及リンクのないトラックバックは受信されません。

この記事へのトラックバック