2007年02月25日

寒戻る

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先見えぬ介護の長く寒戻る

我が墓のとなりはたれそ無縁墓春の夕日にあわれ眼にとむ



介護の問題は様々である。百人百様になる。老々介護というのも高齢化社会の問題である。老夫婦で一方が介護しているとか娘、息子でも六十代でも親が八十代九十代で生きているから介護になっている。六十代でも重度になると体力的に苦しくなる。そして介護は先が見えない、長いのが辛いのだ。その先は死しかならないから憂鬱になるだけだとなる。つくづく高齢化社会はいいものではない、介護の重圧がかかってくるからだ。長生きすることは悪いことではない、いいことなのだがいつか介護状態になる率が高くなるしその時自分自身もそうだが回りの負担が大きすぎるのだ。

となりの墓は誰なのか、毎日通っていてはじめて気づいたのである。隣にあったからこそ気づいたとなる。名前もいつの時代かもわからない、字がわからないのだ。誰かが花をあげていることは知っている人がまだいるのかもしれない、でも名前さえわからないとなるとこういう墓は恵まれた人なかったのかもしれない、ただ死んでこの名前もわからない粗末な墓が形見となった。そして我が目にとまったのである。でもこの人を知る術はもうないのだ。
死んでしまいば残るのはこの粗末な墓一つになってはじめてあわれだとなる。でもこの人が生きていたときあわれを感じるかというとそうとはならない、たいがい生きているときは嫌な人が多いのだ。しかし一旦死んでこのように粗末な名もしれない墓になったときあわれとなるのだ。


もののあわれについて(人間は老齢化してみんな敗者になる)
http://www.musubu.sblo.jp/article/1257380.html

この文のつづきになる。この文はなぜ読まれているのか、リンクスパム、コメントスパムなのかプログのアクセス解析はわからない、ただこれは確かに読まれつづけているのかもしれない、インタ−ネットやプログは必ずつづきを簡単に書ける、付け足すことも簡単なのである。だから延々と書くことになるし書くことは死ぬまで終わらないのである。

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