2007年02月23日

春や昔一五万石の城下かな

春や昔一五万石の城下かな 子規

この句が名句なのはこの句が松山市だけでなく四国全体をも象徴した句だからである。つまり四国は四国を統一するような大きな藩は生まれなかった。それは山国でもあり平地が少ないという地形的な制限にもよった。四国は山が多く山によって分断されていたのである。東北では60万石の伊達藩が生まれたのはそれなりに平地があったからである。一五万石にまでしかなれない栄えを象徴しているからこの句は名句なのである。こういうふうに歴史的に象徴した句を作ることは実際むずかしいのだ。この句の味わい深いのは15万石というとやはりこのくらいの規模だと文化が育まれる規模なのだ。城の俳句とか写真とか出してきたが白河城とか上山城もそうだが小さい城が日本には多いのだ。相馬六万石なども小さいし城すら今は建っていない、日本では小さな城が多いから外国人から見たらなんだ大きな家くらいにしか見えないだろう。今の感覚だとビルの谷間に埋もれているから余計小さく見えるし城に本当に人が住んでいたのかと思う。さすがに姫路城くらいになると城だとなる。

春の日や遠くに望む姫路城(自作)

電車の窓から姫路城が見えた。遠くからも大きいから見えた。それでもビルが建っていてその間なんとか見分ける程度の城になる。でもこれが昔だったらどこでも城は国に入ると一番目立つ標識のようなものだった。外国では塔がそうであるように塔と同じ役割を果たしていたのだ。城が見えたとき国境を越えて別な国、外国に入るような気分になっていたのだ。城は町の中心だった。

この句は杜甫の春望の詩「国破れて山河あり、城春にして草木深し、・・・・・」からもイメ−ジされる。春ということで共通性がある。西安の城をめぐったが「城壁の外春塵に紛るかな」老鶯・・・外国では城というと城壁なのである。その城壁の外ががたがたの砂ぼこりのあがる道であり捨ててある自転車よりひどいレンタルの自転車で中国人と一緒になり走っていた印象が残った。城の中と外ではかなり住んでいる感覚が違ってくるのだ。

ブルジャ-とは語源は城砦(burgus)である城のことだから日本では侍になるがヨ-ロッパでは城の城壁内に住んで守る人が戦士がブルジャ-なのである。だからこのウオ-ルというのには大きな歴史的意味がある。ロ-マでもその後の歴史でも城壁というのは大きな役割があった。それは中国でも同じである。なぜ万里長城などを作ったのかというとやはり国自体を城壁で囲み敵から防御する守るという感覚は大陸として共通している。城壁のなかに住むものは日本のような侍とは違う、同じ戦士としての市民なのである。だから強固な一体感がある。城壁を破り侵入して街が破壊されたら住民も死ぬことになるし奴隷にされる。だから常に城壁は生命を守るものとして大きな意味をもっていたのだ。

つまり城壁の中だと守られていると実感するが城壁の外だと無防備になる。この差はかなり大きいのだ。中国が万里長城を作ったのは国を城壁で囲んだのである。城壁は国境でもあったのだ。大陸ではどこが国境なのか明確でないからだ。国境は人為的に作らねばならないのだ。それが城壁なのである。
日本では異民族の侵入がないから城壁がなかったし市民も育たなかったとなる。

旅ではその街の昔と今を知ってはじめて意味ある旅になる。この昔を知らないとただ今という視点からしか街を見れないからつまらなくなる。だからどうしても昔を知る想像力が今必要なのだ。


正岡子規句碑. 『牛行くや 毘沙門坂に 秋の暮』

この句が城の麓にあった。この城の麓を牛が行く姿があった。これは今では考えられないことである。正岡子規は武家の出であり侍だった。城は身近でありその城の麓を牛を行くのを見ていたのだ。松山でも3万くらいの町だから常に農家が身近に存在したのだ。江戸ですら農家が身近にあったのだ。生活でも糞尿の処理などで農家と密接に結びついていた。そういう昔をイメ−ジしないと感覚的にずれてしまう。そもそも昔を偲ぶ場合は一場面だけをきりとって鑑賞できないのだ。全体としての一部だから全体を知らないと思い浮かべないと細部もないのである。時代は一部だけをとり出して知ることはできないのだ。

春の雨しとと我が行く毘沙門坂

春の雨というと遍路の石手寺でも春の雨だった。あそこには古い三重の塔があった。春の雨もまたいいものであった。松山には三日ぶらぶらしていたのもよかった。

松山に四街道や春の朝−老鶯

松山からは大きな街道が四つくらい分かれて通じていた。四国の中心的位置にあり街道の基点でもあった。やはり四国とか瀬戸内海には春らしい春があった。東北の荒寥とした海とは違って人のあたたかさのようなものがある海なのだ。気候が影響してそうなっている。言葉でも東北弁のように重くならない軽さがあるのは気候とか歴史の影響が大きいのである。発音の抑揚が話しやすくしているのだ。東北弁は会話的ではない、重く沈んでくる会話になる。こういうところに文化の相違がある。西と東はそもそも古代から相当な文化の差があったのだ。
今回のプログの鑑賞と批評は前にかいたものを付け足したのである。ともかく量を書いているからまた前に書いたものを別にアレンジしたり付け加えたりして出せるのだ。編集するとまた別な文になっているのだ。インタ−ネットはいくら書いてもいいのだから気楽に書けるから膨大な量になってしまうのだ。プログだと短い文になるから記事ばかりふえるのだ。でもその一記事でもそれなりの内容を書いていないと期待外れになる。期待外れなのが多すぎるからだ。


四国紀行編−暮春松山散策

http://www.musubu.jp/shikokukikou1.htm



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