毎日目立つ一定の場所にサイフを置けといってもどこか別なところに置いてしまう。なぜ隠すんだというと隠すんじゃない、どうして置いてしまうんだという、下駄箱とか場違いな所に置く、リンゴを飲み物の置く場所に置くとか同じ種類のものを分類して置けないのだ。
●抽象的なことがわからない(銀行は意味不明)
銀行のことが意味不明になる。年金は自動的に銀行に入金して貯金されていることが理解できない、入金通知のハガキで金が期日に入ったからおろしに行くという、前は通帳とハンコをとられたと騒いでいたから通帳とハンコが重要であり金を下ろせると思っていた。
買い物はできるから金が何であるかはわかる、ただ銀行に自分の金が積まれてあることを明確に理解できない、ここが一番不思議であり馬鹿になったと思えるのが認知症だった
●世間的な話しは比較的通じる
自分がどんな人間であったかとかはわかっている。だから誰々を世話したとか自分は家のために働いたとかそういうことを何度も言うのはおかしなことではないし本当である。自分は家のために尽くしたから大事にされるべきだと考えている。自分が建てた家だとか自分のしてきたことを自慢するのも変ではない、それを言うことで自分を確認し自分の過去の力を誇示している。ただこれも執拗になると娘でも息子でもいやがられている。でも今が記憶できない、理解できないとなると過去に執着するのもわかる。過去が唯一自分の拠り所となる。
普通の人の介護でも過去が大事になる。過去の人間関係やこれまでしたことが介護にかなり影響する。嫁としていじめられていたばかりの女性は姑を介護する気にはなれないだろう。どうしたってその気持ちは外にでてくるからだ。つまりこれだけ長生きになると今までしてきたことの責任をいやおうなくとらされる。誰もいいかげんな親だったら介護したくないからだ。
●多少の病識
認知症に接して一番の謎は銀行のことがまるっきりわからなくなることだった。通帳とハンコをもっていけばおろせるのにそれも頭に浮かんで来ない、銀行に金あんのかと毎日聞いている。これはあまりの知能の低下で驚いたのだ。ただでは全く馬鹿になってしまったのかというそうでもないのだ。人格は保たれているし変わっていない、妄想はほとんどないし夜はぐっすり眠っているし暴れることもない、自分の現在の状態に満足している。多少の病識がある。時々わからなくなったと盛んに言う、どこかおかしくないかとかもしきりにいう、うすうす自分が忘れたということも認識するようになった。他者を責めないからである。
●感情的安定
感情的には安定している。極端に怒ったり暴力になったりしない、その相手がいないからだ。特定の相手に険悪になるのが認知症かもしれん、感情的に安定しているから他の分野にも影響していいのである。何かあっても騒がない、前頭葉でわからなくなっていることがあっても感情的に影響しないとなる。だからわからないことがあってもそれも自分のせいであり
苦渋の苦笑いをしている。何かわからなくなった、自分でも困ったとんうの顔をしているのだ。これだと介護する方は楽だとなる。感情的安定は認知症には大事だろう。感情的に安定していると怒りや暴言や暴力にはならないだろう。だから側にいる人が情緒的安定的作用に大事になる。なんか母親とか父親的な人が常にそばにいると安心するのだろう。それが娘や息子になる場合がある。
●感覚五感の持続
豆腐を残っていた賞味期限をきれたものを出して酸っぱくなっていた。自分でも食べて酸っぱいと言ったから味覚はあったのである。食ったことを忘れるからないのかと思った。味覚はあるが食ったことを忘れていることはある。耳はいいから人の言うことはわかる。
認知症は銀行のことなど抽象的なことがわからなくても原始的感覚的なことは残るのだ。抽象的なことというと地図で自分の位置を確認することは認知症の人にはできない、動物だったら自分の匂いをふりまいてマ−キングして縄張りを主張したり犬だったら嗅覚で犯人を探したり獲物を追うことは優れている。そうした原始的感覚は認知症になっても消えないのである。うれしいとか悲しいとか感情的なことも残る。だから人間でなくなるというのではない、人間的なものは残っているから全く人間として通じなくなることはない。自分の息子や娘とわからなくてもこの人は親切にしてくれ人だと本能的にわかる。犬でも猫でも動物でもそういう人は直感でわかるのだ。
そういうことにはかえって敏感になっているのかもしれない、だから施設でもそういう人を見抜くことはかえって鋭くなっているからいやだとなると普通は理性で我慢するんだができないので暴言や暴力になってしまう。でも普通人間はいやなことでもがまんしてがまんして生きているんだから介護する人を責めるわけにはいかないのだ。認知症の人はそうしたストレスをもはやためることができない、だからストレ−トに感情が出てしまいいやがられる、わがままだとなる。現実だから認知症の人を気分よくするには誰かの忍耐とか犠牲とかが強いられる。でもそれができないから問題行動になるのだろう?認知症の介護は相当な忍耐心を要求されるから若い人でも介護すれば忍耐心の養成にはなるだろう。これだけひどい人を相手にしているのだから
普通の人だったらたいがい寛容になれるとかなる?普通の人でも介護は大変な忍耐心が要求されるしそれをしている人には感心する、女性は忍耐心ガあり向いているのだろうか?男性は向いていないししたくないのが本音だしみんなしたくないと言っても非情とはならない、だれもやりたくないというのは仕方ないことなのだ。
●脳血管性認知症なのか?
おそらくK子は脳血管性認知症なのだろうか?症状からするとにている。太っていて心臓病とか高血圧になっていた、それで一時期脳血管に支障がきたし器質的に前頭葉などがやられ認知症になったのかもしれない、ただいろいろとヒュ-マンな人的介護で多少回復したのかもしれない、器質的障害だったらやはり脳の一部が破損してしまったのだから直しようがないのか?原因は脳血管の障害だったとするとその人の性格がどうだとか傲慢なところがあったとか関係ないのだろうか?その人の性格が関係しないのか?結局この病気はあまりにも謎が多すぎるのだ。若年性認知症の人はなぜなるのか?これは老年性とは違い、頭が活発に働いているのになるのだから不思議だ。病気だったら原因がわかれば将来的に直るとか医者が言っているから将来的に原因がわかり直るものなのか?・・・・わからん・・わからん・・
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