2009年11月07日

老いをともにする人は誰?


寂しさに堪へたる人のまたもあれな庵ならべむ冬の山里   西行

故郷に老いてともにし過ごす人誰なるべしや秋深まりぬ


本歌とりではないがこの二つを相通じるものがあった。 「庵ならべむ冬の山里 」とは老いてともに過ごす人だった。60すぎると今までとは違ってともに老いゆく友が必要になることがわかった。もちろん、夫婦であればそのまま老いをともにする、でもこれからの老いは子供と一緒に過ごすとは限らないしむしろ離れて住む人が多くなる。孤立している老人も増えてくる。
そこで問題になるのは 「庵ならべむ冬の山里 」誰と庵を並べるのか、そこが一番の問題になるのだ。一人暮らしの人にそんな人がいるのか、長年つきあっている人でないと無理かもしれない、一方で老い共に過ごす人を新たに探す人も増えてくるし現に共同で住宅を作り暮らしている女性もいた。団塊の世代というと競走に明け暮れ他者を出し抜くことが生きることだった。人数が多いから必ず席取り競走になるのだ。でも今や老いに入ると逆に共同することが求められる年代になったのである。もはや争うのではない、心から老いをともにする人が必要になった世代なのである。ただ庵を並べむというとき住宅としては別個であり独立しているから施設などで暮らすのとはこれは違っている。施設だとどうしてもフライバシ-がなくなる。窮屈になり嫌だという人もでてくる。そういう老いをともにする人がいなくても金持ちだと老いは豊になる。

 
自分の理想では庭師を雇いお手伝いさんを雇い広い庭の手入れをしてもらい、食事の用意もお手伝いさんにしてもらう、これだと別に老いをともにする人がいなくてもいいかもしれない、昔の金持ちは大工や庭師でも雇っていた家があった。それでそこでゆっくりと仕事させてもらうので職人は腕を磨くことができたという話をきく、今はそういうふうに仕事をさせてもらいないから腕をみがけないというのもうなづけるのだ。切り売り的な仕事しかできないというのが今の時代である。
 
老人問題を追求してきたがこれは実際は人人類史ではじめて直面する問題である。確かに老いの問題は今までもあった。でもそれは極少数の問題であったのだ。今は全員の問題でありそれも数が多いから老いというのが社会の重圧ともなり老人は安楽死させるべきだとかの極論もでてくる。最近の35歳の小太りの女性にだまされて大金をとられ殺された老人などがいたがそういう事件も現代を象徴している。ヘルパ-とかで金のある老人の家に入ってくるから家族の一員のようになるからそういう事件も起きてくる。孤独な老人とか一人暮らしが増えてくるのだ。自分もそうなりつつある。小太りとか太った女性にはあたたかみを感じるから顔はまずくてもかえって安心感があったからそうなった。老人になるとあんまり容姿とかは問題にならない、性格の良さとかかえって性をぬきにした人間的魅力が大事になる。だから老いをともにするのは若いときとは違った条件になる。ただ本当に老いをともにする人が誰になるのか、誰にすべきなのか、そんないい人がいるのかとなるとなかなかいない、でも団塊の世代はそういう老いをともにする人を求めるようになっている。だからいろいろな形態でそういう仲間作りがはじまるかもしれない、それは今までの家族とか夫婦とかの単位になるとは限らない、なぜなら高齢化社会は今までの伝統的な関係だけでは解決しない様々な問題をかかえこんでいるからだ。ただ老いをともにすることはもはや争うことではない、人生の争いは終わり、色恋沙汰や出世争いとかも終わった、枯れたなかでの共同を追求することになる。しかしまた以前として老人もいろいろであり老人ホ-ムでも色恋沙汰で争いなどがあるから自分が求めるのとは違っているのでなんともいえない、ただ老いをともにする人を求めていることはそれぞれ間違いないだろう。
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