2007年02月13日

飯館村大倉の老婆が相馬女学校出たと・・・

大倉に昔を語る老婆かな春はまだしや街の遠き日

大倉出会った老婆は相馬の女学校を出たことを自慢していた。ええ、こんな山の中からも女学校出たのと思った。私の家族でも女学校に行けないこと今でも悔しがっているからだ。相当な金持ちでないと女学校には行けなかった。女学校出たということは当時では一つのステ−タスだったのだ。団塊の世代で大学を出たということも地方ではまれだった。しかしその時から大学の価値は低下していたのだ。マスプロ大学であり大衆化していたのである。戦前の旧制高校は本当のエリ−トであり誰も一目置いていたし世間でも特別扱いだったのだ。そして学生は選ばれた人であり優れた青年が多かったのである。団塊の世代の大学生はそういう特別なエリ−トととは違い、学生運動が起きたのもマスプロ教育の反感から起こったのである。エリ−トたるべきものがエリ−トでないという鬱憤を晴らすことがあったのだ。もちろん有名大学の学生も参加したのだから全部はそうでないにしても学生は特別なものでなくなっていたのだ。新宿で石を投げると学生にあたるとか毎日マ−ジャンしているとか学生らしからぬものが急増していたのである。学生の質の低下もひどかったのである。それでも高度成長期で人手不足でみんな就職できたのである。

大倉のような山の中でなぜ女学校に行かせるほどの金持ちがいたのだろうかという疑問である。炭焼きをやっていたと言っていたから当時は炭焼きが現金収入として大きかった。上萱のような所でも炭焼きをしていた。町の燃料店が一括して買っていたのである。炭焼きはどこでも盛んだった。長野辺りを旅した人が次から次と炭俵を背負った女性に出会ったというしその老婆も荷物を背負って仕事したという。背負うということが当時は仕事だった。山には何もないかというと当時は木材も売れたとすると山には長者がいた。昔も山には長者がいたのだ。鉄をとったり資源があったから長者になった。
なぜ原町に森林鉄道があったのか飯館の木材などを運ぶためだった。森林鉄道は各地にあったし鉱物資源を運ぶためにもあった。森林鉄道というのはマニアでないと知らないし全く忘れられたものとなっていたのだ。

私の家は大倉で木こりをやっていた同級生がいい柱の木を提供してくれた。昔風の家であり柱が太いのと壁が土壁だからその頃では土壁は最後だった。

大倉に切り出す木の我が家の柱となりて支え古りにき

当時の木材は近くの山だったし大黒柱になったのもそうである。今は外材になったから家であれ食べ物であれ地元と結びつかないけいざいになってしまったのだ。だから山は街の人にとっても疎遠な過疎地域になっているのだ。経済的に結びつかないからである。

その女性は鹿島区の親戚の家から相馬女学校に通ったという。今なら車で通いるかもしれんが当時は交通の便が悪いから通いなかった。親戚の家で気を使って勉強できなかったとか言っていた。昔は尋常小学校が普通だったから女学校に行けるとなると羨望の的だったのだ。山の生活というと今や過疎だけが話題になるが山は昔はそれなりに木材や炭焼きなどでにぎわっていたのである。蚕なども桑を作るには山でもいいし山の中でも蚕の一大生産地になってたから蒸気機関車が通ると桑が煙でだいなしになると汽車を通らせないようにすることが各地で起こったのもそのためである。

その老婆はまたここではうまい米がとれるんだよ、あそこがおらえの家の田んぼなんだとしきりに言っていた。確かに山は水がいいから米がうまい、鹿島区でも米がうまいのは栃窪であり山の方でありそこは水がいいから米がうまいのだ。私の家でも栃窪から米を買っている。一地区でも米の良し悪しがある。それは水が関係している。米作りは水と不可分にある。八沢浦などは干拓地だから米はそんなにうまくないとなる。土壌が干拓地だとすると悪いのも影響する。郷土史で一番大事なのはどこが古くから人が住みついたか古い村なのかを知ることである。新旧が混じり合っているところもあり複雑である。大倉の峠を越えた所に二軒家があり一軒だけが残っているがそこに共栄橋とあるからこれは明治以降に入植したからである。古いと思っても新しい場合が結構あるのだ。

大倉というとダムの底に主要な家は沈んでしまった。葉山祭りというのは相当古いから大倉部落は古くからあった。ダムができないときその部落自体神秘的だった。そもそも山の奥にある部落は人があまり行き来しないとき交わらないし知られないから神秘的であり桃源郷のような秘境であったのだ。椀貸し伝説とかあるのも人がめったに入っていかないから神秘的秘境化したのである。現代は頻繁に車で行き来するからどこにも神秘性はなくなったのである。ただ秘湯巡りなどがブ−ムになるのも今やそうした昔の山の部落の神秘性を求めるからそうなる。大倉では今でも車で春にお浜下りで浜で神事を行うから鹿島区とは関係しているし近くに「大倉ばっぱ」とかダムに沈んで移住した人が住んでいたりする。飯館は一応山中郷で相馬郡に入っていた。今は合併しなかったから南相馬市に入らず飯館村として残ったのである。

飯館村の共栄橋から発信
http://www.musubu.jp/jijimondai15.htm#kyoei
posted by 老鶯 at 20:28| Comment(0) | TrackBack(0) | 飯館村
この記事へのコメント
コメントを書く
お名前: [必須入力]

メールアドレス:

ホームページアドレス:

コメント: [必須入力]

※ブログオーナーが承認したコメントのみ表示されます。
この記事へのトラックバックURL
http://blog.sakura.ne.jp/tb/3343578
※ブログオーナーが承認したトラックバックのみ表示されます。
※言及リンクのないトラックバックは受信されません。

この記事へのトラックバック