2006年02月10日

春の雲(看護からのしばしの解放)


久々に隣の市へ春の雲

しなやかに樹々のゆれるや春の風


ここ一カ月認知症の看護で何もできない、隣の市にも一カ月ぶりくらいで行った。認知症とかは留守にすることもむずかしいのだ。付ききりの看護になってしまうから苦しいのだ。二人いれば楽だが一人だと大変になる。連絡のために携帯電話に入ったりなんか介護はいろいろ金かかる。そして車がないと介護はかなり不便であることがわかった。車を利用することが多くなるからだ。技術力といったのは車とか携帯電話のことである。91歳で携帯電話をするというのも現代なのか、耳が遠いから本当は携帯電話は向いていない、でもなんとか話は通じた。まあ、91歳で携帯電話を経験するというのも時代である。音声通話だけだったら電話と同じだからできるのかもしれない、でもこれも大変である。高齢化社会はこれまで経験しえないことが起こってくるのだ。その最大の問題が認知症というとんでもない病気だったのである。介護は地元を利用することが活用することが多くなるから地元にとっては経済の活性化になる。地域の助けとかが絶対必要だからだ。それは商店でも近くにあるものが必要になってくるからだ。すでになんだかんだで何十万もいろいろ使ってしまった。介護は金のかかることにもなるのだ。

本当に春が来た。日ざしも風も春になった。春になれば介護も楽になるのか?認知症は直らないとか悪くなる一方だとかいうとそうはならないのか不安である。施設とか外部の利用が全くわからないしできていない、親戚とかはちょっとは援助してもそれはあくまでもちょっと介入するだけであり本格的に看護や援助してくれのはもはや別の協力体制を作らざるをえないのがこの病気なのだ。今助けてくれたらあとまた助けてくれた人を助けるとかそうした援護関係を作るのがいいというのは納得する。それは別にもはや親戚とは関係ない援助体制を作ることなのである。認知症には大変だからそうなるのだ。
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