朝さむみ桑の木の葉に霜ふりて
母にちかづく汽車はしるなり
桑の香の青くただよう朝明けに
堪えがたければ母呼びにけり
蚕の時代がまだつづいていた。桑畑がいたるところにあったのだ。阿武隈急行ができたのは遅い、あの辺は阿武隈高原は川俣、保原など蚕の産地であり蒸気機関車が来るとその煙で桑の葉がだいなしになると通さなかったのだ。それだけ蚕で生活していたから起きた問題だった。桑の葉は今はほとんどなくなってしまった。茂吉の生きた時代も明治から大正−昭和と今の大正生まれと通じたものがあった。新幹線とかで来てはこういう旅情もなくなるだろう。汽車という言葉自体すでに過去のものなのである。電車であり山形新幹線になっているからだ。文学は時代を読むのに適していることがわかった。
小説は苦手でもインタ−ネットで一部をとりだして読むというのもありえなかったがインタ−ネットではキ-ワ-ドから読むからそうなる。インタ−ネットの特徴は今までの読書とは違う、山形を旅したから山形にかかわるものを調べて出てきたものを読む、茂吉の短歌でも膨大だから全部は読めない、自分の興味ある関連したものを読むのがインタ−ネットなのである。だから今までなら読まないものの一部を常に読んでいる。インタ−ネットの読書は今までにない読み方をしている。本の世界だったら読まないものを読んでいる。それは自分の関心とキ-ワ-ドから読んでいるからなのだ。
山形のあがたよりくる人のあり三年味噌を手にたずさえて
ここにあがたという言葉がでてくる、他にもあがたがでてくるのもあがたがまだ生きている。あがたについては書いてきた。あがたは(県)だからもともと日本の国が起こった地域である。アガタ(上田)から田が作られてきたからである。山形とは山のあがたなのかもしれない、上山は上の山形だった。
古代の部落は丘にあった。低地部に臨んだ高地である。田は一般にその部落を上に控えた低地(田居)にあった。秋の収穫期になると特殊な信仰に関係して一部の貴い女性などが降って低地部に滞在する。そこで小屋などのある所を田居といい、そういう所で一時的集団的住居ができるのをいなか(いなか)と言った。 (折口信夫)
これでわかるように古代では田のあるところには普通は暮らしていなかったのである。生活の根拠は高い場所にあったのだ。
他に山形県の地名の特徴として山形市には三日、五日、六日市 七日市、八日・・・と市のつくのがやたら多いのだ。旅籠町もあり紅花商人などが泊まったという司馬遼太郎の推測である。つまり毎日のように市がたっていたのである。
雪溶けて市立つ日こそ待ち遠し(自作)
こうした待ち遠しいという感覚もなくなってきている。それも交通の発達ですぐ行けるからである。汽車と新幹線の時代はあまりにも速さが違っているから感覚的にも宇宙時代になったような気さえしたのである。飛行機かロケットのような速さだったからだ。
ゆけむり紀行
http://www.yamagatakun.org/kyoushu/mokichi03.html
念珠集 斎藤茂吉
http://www.aozora.gr.jp/cards/001059/files/43501_17416.html
2007年02月09日
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