
花の雲鐘は上野か浅草か
田舎路はまがりくねりておとづるる人のたづねわぶること吾が根岸のみかは、抱一(ほういつ)が句に「山茶花(さざんか)や根岸はおなじ垣つゞき」また「さゞん花や根岸たづぬる革ふばこ」また一種の風趣(ふうしゅ)ならずや、さるに今は名物なりし山茶花かん竹(ちく)の生垣もほとほとその影をとどめず今めかしき石煉瓦(れんが)の垣さへ作り出でられ名ある樹木はこじ去られ古(いにし)への奥州路(おうしゅうじ)の地蔵などもてはやされしも取りのけられ鶯の巣は鉄道のひびきにゆりおとされ水(くいな)の声も汽笛にたたきつぶされ、およそ風致といふ風致は次第に失せてただ細路のくねりたるのみぞ昔のままなり云々(うんぬん)と博士は記(しる)せり。中にも鶯横町はくねり曲りて殊に分りにくき処なるに尋ね迷ひて空(むな)しく帰る俗客もあるべしかし−正岡子規「墨汁一滴 」
根岸の里とというと今行ってみたらそこはラブホテルの細道であり興ざめした。あまりにも変わりすぎたのだ。昔の面影はなにもない、ここでは竹の生け垣から石煉瓦になったこともかなりの変化としている。煉瓦は明治時代から全国的に普及した。今では昔を偲ぶ建物となっている。古(いにし)への奥州路(おうしゅうじ)の地蔵・・・などというと江戸時代の街道のつづきがあったのか?奥州へ向かう道にあった地蔵だったのか?奥の細道というとくねり曲がった細道だったから江戸時代のつづきが根岸の里にあったのだ。昔の道は真っ直ぐではない、くねり曲がっていたのである。昔を偲ぶ作業をしてきたがこれは今や自ら想像しないかぎりわからない。その現場に行っても想像もつかないものに変貌してしまったからだ。東京は特にそうである。昔がまるでわからないのが東京だった。過去の世界を歩めない、今の空間しかないのだ。昔は地下に埋もれていた。地下から江戸時代のものが大量に発見されて昔があったことが実感されるのだ。何回も書いてきたけど俳句でも江戸時代の俳句は背景がわからないと鑑賞できないのだ。
「花」は「桜花」。上野、谷中は当時から桜の名所として知られ、深川の芭蕉庵から上野・浅草方面の桜が見渡せたという。貞享四年の句に、「草庵」を前書にした「花の雲鐘は上野か浅草か」があり、前年の貞享三年の句に、同じく芭蕉庵からの眺望を詠んだ「観音の甍(いらか)見やりつ花の雲」の句がある。
ここでは現代のようなビルがないから遠くまで見渡すことができたし富士山も見れる場所があり富士見という地名がかなり残っているのだ。それからここの地図のように上野には寺町であり寺が密集してしいたのである。これもその背景であり具体的に想像する世界があった。
http://www.token.or.jp/magazine/g200307/g200307_1.htm
武家地・寺社地・町地と代官支配地(百姓地を含む)。江戸の土地は、この三つの身分社会を反映した区域と代官支配地から構成されていました
花盛り大江戸線の地下を出る
東京やホ−ムレスと語る春
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大江戸や犬もありつく初鰹・・・一茶
江戸衆や庵の犬にも御年玉
朔日や一文凧も江戸の空
四国の遍路のホ−ムレスと会い東京のホ−ムレスと隅田川の川べりのテントで出合い話したことを思い出している。これも奇妙な経験だったのだ。自転車をもっていたり川べりで釣りをしているとか結構優雅な暮らしをしているのには驚いた。これも人生の不思議な一こまであり田舎では経験しにくい、都会では多くの変わった人との出合いがある。これは大阪とか京都でも同じである。アルジェリアで働いていた人とか中国語ぺらぺらの人とか中国で商売する人とか田舎では出合いない職業の人が多数いるから人間的刺激にはあふれている。そして食うものは東京都で焚き出しなどをやっているから食いぱぐれることはないのだ。その点地方のホ−ムレスは厳しいとなる。遍路乞食などは昔は野垂れ死にしたから厳しいのだ。ともかく東京と江戸と田舎は今でもにているところがあるのだ。ただ今やその東京も遠くなってしまった。江戸時代のようにもしかしたら死ぬまで行けないかもしれないということまで感じたのが認知症の介護だったのだ。日帰りで行けるとしても一日では見物できないからだ。だから今や思い出す旅になってしまったのだ。大江戸線は乗ってみたかった。地下鉄は景色が見えないが隅田川では川にでるし公園のところを走っていたのだ。
春の日に誘われい出ぬ隅田川鴎百羽の遊びけるかな