2009年10月01日

母刀自(とじ)の意味(尊敬されていた母)

母刀自が老いて寂しく暮らします千駄ヶ谷をば思いやる秋

かくれ里高尾山路の日だまりに古媼いてころ柿を売る(吉井勇)

果物と言えば昔は柿なれや干し柿好きな母なお生きぬ (自作)


あも刀自(トジ)も 玉にもがもや。戴きて、みづらの中に、あへ巻かまくも(四三七七)


刀自(とじ)という言葉自体万葉時代からあるのだから古い、ただその意味は失われた。母を老母を尊敬する言葉だった。台所をとりしきる女性だった。家族も万葉時代だったら今とは相当違っている。大家族でありその中で家事をとりしきる女性が刀自(とじ)だったのだろう。それだけ家族が多いとそういう中心になる人が必要だったのである。今とは違い家事は機械化もされていないし外部に委託されない、だから家事は一軒の家の中でまかなわれることが多い、外食などもないしその用意だけで大変なことであった。女性の労力は家事に費やされていたのだ。


だから家事をとりしきる刀自(とじ)は重要な役目をにない家をとりしきるまでになる。刀自(とじ)をまだ戦前は言葉として使っていた。それなりに使われていたし女性もまだ家の中の仕事が主だったからである。これだけ母刀自(とじ)が慕われ尊敬されることはある意味で幸福な時代だったともなる。今は母でも父でも存在感が希薄なのである。核家族などと家族も一体感が失われた。これは家族のせいではない、社会の変化の結果であり女性差別とかを声高に言うのも実は女性は別に過去に差別されていない、かえって近代になり差別が叫ばれるようになったのも皮肉である。女性が女性の役目をになっていたとき差別はなかったのだ。これだけ尊敬されることでもわかる。

かくれ里高尾山路の日だまりに古媼(ふるおうな)いてころ柿を売る
今はモノと人が結びつかない、世界の果てから食料が集められるけどそれを生産する人は見えない、物質的に豊でも心では貧しくなっている。直接老婆から渡された干し柿は特別温かさがある。 現代はス-パ-に行けばありとあらゆるものを食べられるがその食料を作る人が見えないのである。魔法のように置かれている。ただ金さえあれば食料も手に入る、だから地球の裏側から来る食料に感謝するということもない、人が見えないからだ。
老人の価値が低下したというとき老人のもっている役割の喪失である。女性の場合は大家族の家の中にあった。それが家事が機械化して社会化したとき失われた。その代わりに女性も社会的な役割として仕事の能力で評価される、男と同じ様に競走するようになった。だからかえって女性は苦しいと嘆いているのもわかる。男と伍して仕事はできない、やはり女性の役割は家庭にあったからだ。フェミニズムも社会の変化の中ででてきた思想であり男と戦わねばならないとはまさに社会の変化で女性が男と伍して仕事させられることから起こった運動だったのである。これはかえって女性を不幸にしたのかもしれない、男と女の役割は本来違っていたからである。

母刀自(とじ)の意味
http://homepage3.nifty.com/katodb/doc/text/2468.html

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