2009年09月27日

頼られるうちが花(弱者への傲慢)


頼られるうちが花


頼られる時頼りがいのある人
その人はさらに信頼される
あなたは何もできないと揶揄された人
しかし相手が弱り何かしら尽くすことができた
病人に対して頼られる人になった
でもあなたは頼られる人になったとき
強者となったとき傲慢になった
謙遜さを失った
私は強くできる人
あなたは弱く私に頼る人
頼りにされる人は知らず傲慢になっていた
あなたはかつてその人に大きく頼っていたはず
それほどのことをしなくても
いかにも大きなことをしたと傲慢になり
要求が高くなりすぎた
謙遜さを失った
今度はもうその人に頼ることはしない
その要求が見返りが余りにも大きなものとなっていたから
頼られるうちが花
あなたは弱者に謙遜に尽くしていれば良かった
しかし人はみなそれができない
謙遜であることは本当にむずかしい
私のようなものでも何か人のために尽くすことができる
そのように謙遜になる人はまれ
その成したことはさほどのないことでも
人は弱者に対して傲慢になる
頼られるうちが花
もうその人を頼ることはない
永遠にない
何か尽くすことはその人にはできない
それでなんだか淋しいとかなるのかも
頼られて尽くしているときは幸せだった
今は誰も頼るものがない
子供でも頼られる時親は良かった
子供は自立してもう親を頼らない
頼られるうちが花
もうあなたは誰にも頼られて何かすることができない
残酷な老化が襲いもはや人の世話になるだけ
そういう日がみなやってくる
頼られたとき傲慢になってはいけない
謙遜に尽くすがよい
やがてあなたは何もできなくなる
頼れるものではなくなる
老いさらばいて何もできない
ただ人を頼るだけになってしまう
頼られるうちが花
力を尽くして頼られる人に尽くすがよい
その日はいつまでもつづかない
あなたはもう誰にも頼られない
ああ 少しでも何かできていれば人のために
前のようにささいなことでもできていれば
ああ 今は何もできない・・・・・
確かに人のやれることには限界がある
でももっとやれたことはあった
頼る人はなく少しでも他人のために尽くしえた時
その日が貴重なる時だったことをしる
それに多くの見返りを望むべきではなく
少しでも尽くし得たことを喜びとすべきだった
金にならないからやらない
今金をくれないからやらない
多少金にならなくてもやる
ともかく自分のやれることをやる
その後に金がついてくるかもしれない
先に金を計算していたら何もできない
頼られるうちが花
その時もまた人は見逃し失い後悔する
人は尽くすことに出し惜しみをし
高い報酬のみを求める
やれることがあってもしない
報酬がたりない、たりないと
日はただ浪費されてゆく
ついに老人になり何もできない
そして何もしてくれないしてくれないと嘆くのかも
そのように人は勝手なるもの
それは自分の人生でもそうであり非難できない
人は謙遜になりえず報酬の低きのみを嘆いている
こんな金でやれるか、やらない
結果的にやれることもやれなくなる
もっとできること成し得たことがあったのに・・・

  

上着を奪い取る者には、下着をも拒んではならない。 求める者には誰にでも与えよ。
あなたの持ち物を奪う者から取り返そうとしてはならない。 聖書のルカの福音書6:29

「上着を奪い取る者には、下着も拒んではいけません。すべて求める者には与えなさい。
奪い取る者からは取り戻してはいけません。」とありますが、
私の友人のクリスチャンは、元彼にお金を騙し取られて、この御言のゆえに訴えるかどうか迷っています。どうすれば良いでしょうか?

貴方の友人が、彼に騙されたと思っているなら
遠慮なく法的措置を取るべきでしょう。
ついでにクリスチャンも辞めた方が良いかもしれません。
聖書の教えにこだわっていると、世の中生きていけませんよ。
私は信仰を捨てたら気が楽になりました。
もう聖書の言葉にこだわらなくて済むのですから。


  理想と現実のギャップは大きい、上着を盗るものに下着を拒んではならないというときそんなこと実行できるのかとなる。訳もわからなく通り魔殺人などあるけどそんな人許せるのか?誰だって死刑にしろとか呪うのは当然ではないか?そうされてみなければわからないのだ。キリストであれ仏陀であれそのまま実行できた人は実はその教えを説いた人しかいないとなる。


現実の場面でどう対処するかはむずかしい。特に金の問題となるとむずかしい。
この言葉にしろ財布に10万盗られた、財布に20万あった、だからさらに10万与えろともなるのだ。それができるか?それは上着とかより実際できない問題になる。10万盗られた、まだ20万あるからしかたないとくらいになはなるが10万盗られたじゃもう十万あるからやろうとする人はいない、実際私に今回ふりかかった問題でもそうだった。どうししてもその人を許せないのだ。


あまりにもひどすぎる、人間の心もないような人がいた。10万盗られたと言ってももしその人がよほど困窮していたら別だがその人はそういう人ではない、金持ちであたその人に10万盗られてまた10万与えるとしたらどうなるのか?そんなことしたらその人をつけあがらせるだけであり何の慈悲の行為でもない、むしろ金を取り返し戒めるべきだろう。つまり個々の実際の問題に直面したときどう対処するのか、それがむずかしいのだ。

人間は謙遜になることが一番むずかしい、弱い人を助けている人は謙虚になりにくい、私は何の能力もないものだがこうして弱者のために役立ったうれしいなどと思う人はまれだろう。


「私はあんたのような無力な人を助けてやっているんだよ、礼をしろよ、金もくれよ、・・・こんな額ではやっていられない・・・・」とかなるのが本音だろう。現実人に援助してもらった結果、要求ばかり大きくなりすぎた、最後には大きな金を貸すことになりその借金が残った。そして現実、それほど援助していなくても援助したと言うのが人間である。報酬がたりない、もっとくれというのが普通である。私はたいしたことはしていませんとなど謙虚になっている人はいない、もっと何かできたのにしない、もっと金くれないからできない、しない、そうしているうちその人自身が病気になったり老齢化して何もできなくなっている、世話されるだけになってしまった。人間は必ず何かできても力の出し惜しみをしてしいる。人間は要求ばかり大きく何かもっとできたのに力の出し惜しみをする。お前もそうじゃないかとなるがただ今回の家族の介護のことで感じたことを正直に書いている。力の出し惜しみするなって言うが医者や看護師も過労だしそんなことししていたら過労死になっているというのも現実である。そんなに人に尽くしていたら死んでしまうというのも本当である。そんなにまでする必要があるのかともなる。そのへんの兼ね合いがむずかしい。ただあの時もっとやれたことがあったのにな、それはたいしたことではなかったのにと思ったからそう言っているだけでありそんな過酷なことを私自身は要求していない、人間は実際たいしたことでないことすら力の出し惜しみをしている。それを言いたかっただけである。

クリスチャンだと確かに法にも訴えられなくなる、なぜならすべてを許せとなったら突然誰か知らない人に殺されても許せとなる。そんなことができるのかとなる。絶対にできないとなる。そんなことできないのが当然でありそんなこと実行できる人はいない、ただそのあとになんらか心境が変化してきて徐々に許しの心が生じてくるかもしれない、それには長い時間が必要なのである。もし相手が反省も悔い改めもしないなら許すことなどできない、そういう人にはどう対処していいのか、許し得ようもないのである。だから聖書の言葉をそのまま実行すること個々の場面で違ったものとなるのだ。人間はとにかく金にはシビアになる。だからだまし取られてそれを許せるのか?そこから殺意も生まれし現実殺人も起きている。そうなるなら法的に訴えた方がいいとなる。法的に制裁を加えることがすべて悪いとはならない、その本人にとってもいい場合がある。結局こういう問題はすべてケ-スバイケ-スであり数学の方程式のように解決できないのである。
私は主キリストの御言葉を実行できない、でも実行しようとしてきた。実行しようとして実行できなと悩んでいるだけで普通の人よりモラル的に優れているのだ。そんなこと全然感じない人が多数だからである。

悪いことをしても悪いと自覚できないとしたらそもそも許しえようがないのだ。そういう人は法律で刑務所で悪いということを自覚させる他ないのだ。そのあとに許しがありえる。やっと自分の悪いことを自覚した。
自分は死刑になって当然だとかなったとき許しはありえる、神からの許しもありえるのだ。
どんな悪いことをしても私は悪いことはしていないという罪を自覚できない人間に許しはないのである。


例えば通り魔事件などでも
「あなたは全然知らない人を無差別に殺しましたね、反省していますか?」
「社会が悪いんだ、私は悪くない、殺された方も社会が悪いんだからしょうがない」
「あなたは全然反省していませんね、悔やむこともないですね」
「まあ、やったことはやったことだ、早く死刑にしてくれ、それでケリがつくだろう
反省なんかしてどうなる、オレは別に悪いことなどしていない、悪いのは社会だ、他人だよ」

こんな人が現実いることはニュ-スで報道しているからしっている。殺人を犯しても悪いと思わない、かえって他者が悪いという人さえいるのが現実なのである。そういう人は何ら罪の自覚なくただ刑が執行されても以前として罪の自覚がなく死んでゆくのである。こういう人は許しえようもないのだ。
 

そもそも親鸞が千人殺してみよと言ったのは千人くらい殺さないと人間は自らの罪を自覚できない、
別に特殊な人でなくても人間はみんな自分を善人だと思っている。自ら罪人だなどと思っている人はまれなのである。優れた宗教者は罪を犯していないのに罪人だと言っていることでもわかる。

一般人は罪を犯しても罪を自覚しない、その差が大きいのである。
 


 


 

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