2009年09月26日

芭蕉の月の句


文を読む離れて住むや月を見る


敗者に同情深し芭蕉の句時を隔てて月の光りぬ

月さびよ明智が妻の話せん 芭蕉 「勧進牒」

義仲の寝覚めの山か月悲し

人間は空間を隔てて生きていると同時に時間を隔てても生きている。空間を隔てて生きている場合はその空間を克服することができる。今や飛行機で地球の裏側まで行けるからだ。でもこれが時間を隔てるときその時間を克服することがむずかしい、タイムマシンも夢物語である。
時間は不可思議であり同じ場所に立っても百年前とかなるとそこで感じたことは今では感じられない、確かに環境も変わりすぎたのだが立っている場所は同じなのである。しかしその時感じたことは二度と感じられない、芭蕉の奥の細道も別に今も存在している、空間は消えていないのだが芭蕉の感じたようには感じられないし芭蕉のような句を作ることはできない、だから芭蕉を越えた俳人はもはや出ないのである。その時しか感じられないものを残したからである。
万葉集などもそうである。今に通じるものもあるがその時でしか感じられないものを歌っているから貴重なのである。

芭蕉の特徴は宗教的哲学的である。前の羽黒山の法(のり)の月もそうである。蕪村は極めて絵画的視覚的俳人だった。「鴛鴦に 美をつくしてや 冬木立」の句のように絵画的なのである。芭蕉が耳の詩人だというときやはり内省的な人であり宗教的哲学的なのである。敗者への同情も深い人だった。義仲に同情したのも敗者だからである。平泉に共感して滅びの美学をものにしたのもそのためである。「月さびよ明智が妻の話せん」これもそうである。明智光秀一族のその後は悲惨であり敗者の末路は余り語られない、その話をせよというのである。敗者に無常の哀感がある。勝者には奢りがある。そこで敗者に同情したのである。
文月は7月なのか、9月は長月となる。文月とか文を書くとか9月長月とか昔の時間感覚は悠長なのである。今手紙書かない、今回事情あって手紙書いた。その手紙もあまりにも相手が低劣であり書くに値しないし手紙というより抗議文であり全く情緒も何もないとなる、もう一人も金の催促の手紙であり全く情緒などないのだがそんなものでも手紙で答えると何か違っていた。離れて住んでいることは人間を本来は冷静にする。だから手紙のやりとりはまず少なくても二日とか間をおいて届くからその間に冷静になる。冷却期間があるから感情が爆発したりしないからいい面がある。インタ-ネットになりパソコンでリアルタイムの発言も新しい文化なのだがここには情緒がない、冷却する時間がない、だから感情的になり、罵倒した言葉が露骨にでてくる。
手紙だとゆっくり思考する時間があり冷静になるから冷静な判断もできる。ネットだとみんな熱くなるから問題がでてくる。手紙はやはり違ったものであり違った文化をはぐくんだ。手紙から文学が発生したというのもそのためだろう。手紙は大衆向きではなく個々人の対話だから2ちゃんねるとかとは相当違ったものである。でも手紙で情緒的やりとりができる相手はまれだろう。それでも事務的なことでも馬鹿げた文でも手紙は手紙でありネットで即座に発信するメ-ルとは違っているのだ。
インタ-ネットで書くということは相手が明確でないにしろ必ず他者を参考にすることでありこれも今までにはない書き方なのである。偶然にでてくるものがあり今回の羽黒山での法の月の芭蕉の句なども始めて知ったのである。キ-ワ-ドで探す内に偶然出てくるから参考にしているのだ。
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