2006年02月07日
寒戻る(俳句ができる背景を知れ)
認知症看護に暮れて寒戻る
窓の外に寒烏一羽声もなし
認知症の看護は日々大変である。正常の世界が通じないから不毛の世界で疲労困憊するのだ。認知症はただ無軌道に異常の世界から攻めてくるのである。だからこの看護に春がくるのかとなる。死んだときやっと解放されたというのが多くなる。やっと正常の世界が取り戻せたということでそれが最高の至福感となる。
アパ-トの外に寒烏一羽が声もなく止まっている。それは何か冷たく見離したような烏である。それは何を意味しているのか?無関心ではなかろうか?現代は地域も家族もかつての紐帯は崩れ無関心社会を作ってしまった。そういう自分も結局東京の大学とか常に外へ外への志向であった。三十年は旅行であり最近10年は海外旅行だったのだ。故郷の町に結局眼を向けることは少なかった。郷土史は書いたが生活的に何か故郷で仕事していなかったのだ。つまり自分自身が無関心でありだから認知症をかかえても無関心にされているのもしかたないことなのか?認知症は人の輪とか人の協力なしでかかえきれない余りにも大きな難題なのである。
俳句にはこうした説明が必ず必要である文学なのだ。俳句だけでは成立しない、説明書きが必要な文学である。つまりどういう背景で作られたかという説明が必要なのである。認知症をかかえた家族とから見た世界は自然は違ったものとなってしまっているのだ。寒烏を見る眼もその人の境遇や立場などみんな違ってくるのだ。
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