2009年08月21日

これがまあつひの栖(すみか)か雪五尺(小林一茶)の解釈

 是(これ)がまあつひの栖(すみか)か雪五尺
                          小林 一茶

人間のついのすみかはどこになるのか、自分の行く末を考えたら最近は身内が一人死んだしそれで墓のことなど何か自らの奥津城を意識した。自分の最後となるべき墓のことをこれほど意識させられたことはない。自分の家の墓のこともそうだが母の実家の墓も荒れているので直す必要がでてきた。隣の墓が持ち主がないと思っていたら実際はあった。墓は一旦使用権を買えばあとは一年間500円とかで維持できるのだからなかなか無縁化はしないことがわかった。誰でもそれくらいの金は払えるから墓を維持することは楽である。家を維持することは老朽化してリホ-ムなどすると大きな金がかかる。財産がないと維持できなくなる。人間は俳句でもその人生経験から解釈する。小林一茶も放浪の俳人である。貧乏のどん底でも日本を旅して放浪していた。結局、自分も同じだった。30年間放浪していたのだ。そして今やジモシティ(地元主義)になった、というよりは地元に閉じ込められたというのが現実である。つまり自分の一生はそもそも故郷から地元から脱出することだった。東京の大学に出たのも地元を脱出することだった。若いときジモシティ(地元主義)にはならない、絶えず遠くへ遠くへと心は向き現実に今や若者は世界を放浪している時代になった。でも最後に老人になったらつひの栖(すみか)に落ち着かざるをえない、そのついのすみかがいいとは限らない、一茶にとっても故郷はいいところではなかった。でも故郷に帰らざるをえなかった。
故郷だと田舎だと狭い地域の思考になってしまう。視野がかなり狭くなるのだ。そして過去からの継続も大事になり意識化される。墓を作ったとき百万したとか聞いた。でも今他の業者に聞いたら高いという、実際に何十万も高いようだった。するとなぜそんなに高くとったのだろう、高くとりすぎていると思った。こんなこと都会だったら業者自体すでに誰かわからず関係していないのである。そうした昔のことまで今にとりざたされるのも田舎なのである。つまり都会なら法外値段をふっかけたりしてだますことができる。田舎だと今になってそんなことがわかると取りすぎだったとかごまかしだったとかなるから信用を失うこともありうる。つまりあまり高い値段では信用を失うことにもなる。地域で信用を獲得することは昔からの継続も関係しているのだ。グロ-バル化の世界は今や庶民でもそうである。視野が世界的になった。その反面やはり老人になればついの栖(すみか)が意識化される。つまりそこは墓なのである。もはや墓に入るだけのend(ゆきづまり、終着点)なのである。田舎は一面牢獄である。今年は曇って憂鬱なのも影響している。一茶がこの句を作った気持ちがわかった。
陰鬱な雪国の空がのしかかるようにおおい、ただ雪ばかりがふり土蔵に閉じ込められるついのすみかの暮らしである。最後にその重い陰気な信濃の雪の下に閉ざされる。雪国の冬は長い、江戸時代ならさらち長い、交通機関もない、ただ毎日雪がふり雪に閉ざされた世界なのである。ここで雪五尺という具体的な雪の量と重さを意識化したこともわかる。自分にのしかかる具体的な重圧感を表現したのが雪五尺だったのである。自分も介護とかでその重圧感を身に帯びたからわかった。身動きとれない感覚が雪五尺なのである。雪五尺のなかに埋もれる、払いきれない雪五尺の重みがのしかかる。もはや年だからさらにその重圧感は死へとつながっている。若いときは故郷が嫌で放浪したが今やここで雪五尺の下で死ぬ他ないという陰鬱な最後なのである。
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