2007年01月22日

記憶力は人間にとって何なのか?(認知症は忘れるのではない、記憶できない病気)

●人間は記憶する歴史的動物

人間にとって記憶とは何なのか?この記憶の大事さがわかるのは老人になると具体的にわかるのだ。老人というのは新しいことを覚えるのが苦手になる。新しい人と接しても名前を忘れたりする。過去のことも忘れやすくなる。人間とはその一生でも一代でも忘れやすいから何代もつづくこと歴史を伝えるためにいろいろと工夫した。伝統的な祭りもその意味がわからなくなってもつづいているのはそのためである。過去の記憶の保存が祭りなのだ。また最初は語り部によって語り継がれてきたが文字を発明して文書にしたのも大事なものを言い伝えることや知識を伝えるためにそうした。エジプト文明が記憶の文明のように神聖文字ヒエログリフで記したのもそのためである。過去の記憶がいたるところに神聖文字ヒエログリフで記されたのも記憶する執念のようなものがそこにあったためである。記憶が人間にとってそれほど大事なものだから必然的にそうなったのだ。

文字だけでなく歴史的記憶になるものはいろいろある。建築もそうだし絵でもそうだし過去を記憶するためのものが歴史の遺産である。過去を記憶したものがなければ人間に歴史はないし知識も伝達されなかったし人間は動物と同じだとなる。動物には本能があっても歴史はないからだ。人間は過去に記された経験されたことから未来を作るからだ。動物には過去はない、歴史がない、現在しかないのだ。人間はいろいろ定義されるが歴史的動物なのである。

●認知症は忘れるのではない、記憶できない病気

ここで認知症の根本病理は忘れるのではない、記憶できない、記名力がなくなることなのだ。忘れるとは一度覚えたものを忘れるとなるが認知症の場合は一度覚えたものを忘れるのではない、脳に記憶することができない、海馬が記憶する場所だとするとそこが損傷して記憶できないのだ。忘れる前に記憶できない病気なのだ。何かを買ってきて冷蔵庫に入れてもそれがすぐ忘れる、記憶できていないから自分が買ってきたものも利用できなくなる。そして冷蔵庫にあるよと言っても一体誰が買ってきたものなのかどうしてそこにあるのかもまるっきり忘れてわからないのである。だから誰かが置いていったとか物がなくなると盗まれたとかすぐなってしまう。まるっきり記憶できない、記憶が脳に保存できないからそうなる。

「あなたが買ってきてここに置いたんですよ」
「私は買ってこない、私には全く覚えがない、絶対にない」
「私を信用しないんですか?」
「・・・・・・・・・」

ここで相手が感情的に嫌っている人とかなると私はここに置いた覚えがない、絶対ないとか怒るのである。それが極端になると暴力にもなる。自分がした覚えがないことを指摘されるから頭にくるのだ。そもそも忘れるのではない、記銘力がない、記憶することができないのだ。メモししていればいいというがメモすること自体忘れる、つまりメモしたということを記憶できない病気なのだ。だからメモすること自体無駄だとなる。

認知症は記憶できない病気だとすると誰かが常につきそっていてその記憶力の援助をしなければならなくなる。金をやってもそれをいくらもらったのかどこに入れたのか記憶できない、とするとその金をどこに入れてどこに置いたのかつきそう人が知っていないとあとで困る。金がないというとき知っていればどこそこにあるとかいくらあるとか指摘できるからだ。そうでないと金がないと騒ぎ誰かが盗ったとなるからやっかいなのである。記憶障害なのだから誰かがつきそって記憶をしてやらなければならない病気なのだ。現在が記憶できないから不安になる。あったものが常にないということは不安にする。だから誰かが入ってきてひゅ−と盗っていたとかの作り話をしたりする。誰かがそばにいてそれはここにあるよとかすぐに言えば安心するのである。そして今日は誰々とあってこんな話をしたとか誰々にこれはもらったものだよとか言っていれば自分のしたことをなんとか知ることができる。でなければ今日したことをみんな記憶できない忘れてしまうのである。


●老人は思い出(記憶したもの)が宝

老人になる思い出だけが宝となる。記憶していることが宝なのだ。それは読書でも旅の思い出でも苦労話でも記憶したものが人生になってしまう。自分自身にしても30年間旅をしたからその記憶が宝でありその記憶を蘇らせて詩とか文章を書いているのだ。その記憶を失いばそこにいたということも忘れたのだからそこに存在しなかったと同じである。こういうことは旅してもいくらでもある。そこに行った記憶さえなくなっていることは他の人でもいくらでもあるのだ。何にも記憶が残らないのである。認知症の人が千回も過去の印象に残ったことを話し続けるのはそれが生きてきた証しのようなものだからである。現在が記憶できないとなれば過去の記憶に生きる他ないとなるからだ。だから本当に過去に戻ってしまうというのもわかる。現在が記憶できないとしたら過去の方が現実であっても不思議ではないのだ。ともかく人間にとって記憶とはその存在の根幹を成すものでありこれが失われることは致命的なことが認知症の人に接してわかったのである。


我が形見見つつしのはせ 荒珠 (あらたま) の年の緒長く我も 思 (しの) はむ 笠女郎

この形見とは歴史的遺産であり年があらたまっても長く過去の歴史的遺産を偲んでくださいという意味なのだ。それは老人が語り伝えるものや残すものでもそうである。老人は何かしら形見を残すのである。そして死んだあとでその形見に思いをはせ死者とつながる。それが人間が一代だけでは終わらない歴史的動物なる所以なのだ。この形見(記憶)が失われることは人間にとって致命的なのである。

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