2009年08月16日

お盆終わる(供養とは愛情である)

墓作りに大切なものは、祀るべき対象をはっきりさせるという事である。

供養とは「愛情」である。
http://www.megaegg.ne.jp/~boso/tatekata/tatekata_02.html


お盆とは何かとか書いてきた。お盆は死者を偲ぶことである。初盆は最も身近な人が死んだのだからまだその面影は遠いものではない身近なものとして見える。お盆はそもそも死者をいたみ偲び供養することからはじまったのだ。それがいろいろと祭りとして発展して今日までつづいている。だからお盆というのはなくならない、人は必ず死に死んだ人のことを偲ぶことになるからだ。
 

墓作りに大切なものは、祀るべき対象をはっきりさせるという事である。

墓は誰がその墓に埋まっているかわらないとしたら供養することもリアリティがなくなる。具体的にその人を思い浮かべることができなければ供養するにしてもリアリティがなくなる。この墓にはこういう人が埋まっているんだよと何度も聞いた。一人は肺病で20代で死んだとかそれは話だけでその人ととは会ったこともないがそういう人もいたんだとその墓に思いをはせる。その他現実に交通事故で死んだ兄も埋まっている。今になってわかったことは祖母もここに埋まっている。実の血のつながった祖母でないにしろ祖母だったのである。おばあちゃんだった。この人とは何回か会っていたし実家であるから交流があった。ただ事情があってばあちゃんと思っていなかった。でも今になると変だがばあちゃんだったんだとその墓に入っている人をお盆に墓の前で偲んだ。私はその女性を一回もばあちゃんとか呼んだことがない、ばあちゃんばあちゃんと一緒に生活したことがないから当然である。でも普通離れても外孫でもばあちゃんという意識はある。それがなかったのだ。この祖母が死んだのはすでに30年前以上のことである。つくづくなぜ今頃こんなことを思い出すようになったのか不思議である。30年以上も過ぎてええ、この女性はばあちゃんだったのかと思った。でも一回もばあちゃんと呼べなかったしそうも思っていなかったなと悲しくなった。いろいろ嫌われた女性でもあったが今になるとばあちゃんだったなと思う自分が奇妙だった。こういうふうにともかく全然知らない人を偲ぶことはむずかしいが今になって30年過ぎてその人を偲ぶということが人間には結構あるのだ。
 

供養とは「愛情」である


墓に対する愛情というのも変だけどやはり人間は死者に対しても愛情をもつことがある。生前だけではない、生前に自分にそんなに関係ない、ばあちゃんだったと思っていなかった女性に今はあんなに気が強く嫌われていたけど今になるとばあちゃんと呼べずにあわれだったとか思う。これも不思議な感情である。今さらそんなことを思うこと自体不思議なのである。自分にはそもそも明らかにじいちゃん、ばあちゃんというのが家にもいないからわからないということもあった。自分の家族は兄弟になろうとしてなれないとか母親になろうとして母親になれないとかそういうことが家族の中であったのである。そんな死んだ人に愛情を覚えるというのも不思議である。供養は愛情であるというのは死者に対しても愛情がなければ供養はできない、ただこの愛情は死者と争った人でもあとで30年後とかに反省して悪かったとか死者に愛情を覚えることがありうるかもしれん、その間に人間は苦労したりして心も変わるからである。
人間は死んでその関係が終わりになるのかという終わらない、終わらない印として墓があるのだ。だから墓はお参りする人がいなくなったからと簡単にモノのようにかたづけられない、そこにめんどうな墓の問題がある。墓にはいろいろなその人の因縁がとりついている。その場所にもそうである。その場所から簡単に移すこともできない、その場所で育ったとかその土地との因縁もあるからだ。墓とは死んだ人と語り偲び愛情を交わす場所である。でも初盆に墓参りにきた人も10人にもみたないのも淋しなと思った。あれだけ付き合いの広い人でもこんなふうになってしまうのかと無情を感じてしまった。それでもお盆でも家に帰れる家が会ったし遺影が飾られてあるしましな方だろう。遺影が祀られてない人も相当いるだろう。実家の墓に入った人は誰一人祀られていないからである。ただお参りする人はまだ三家族いたから隣の墓よりましである。隣の墓は草ぼうぼうのなかに埋もれてしまった。誰も墓参りしていないからだ。こういう墓も困るのだ。簡単に墓を撤去できないからである。


 墓と語る-このサイトの疑問
 http://www.megaegg.ne.jp/~boso/index.htm

要するに人間は心が大事なのだ。心に愛情をもち先祖であり死者であれ墓であれ接すれば害はない、墓相を気にして祟りがあるなどということはない、ここで引用したのは墓がどうあるべきかではない、死者に対してであれ愛情をもつことが大事でありそこからすべてがはじまるのでありそもそも愛情がなかったらどんな立派な墓を建てても供養にはならないのである。
墓を新しくしようが墓によって不幸になるというのは邪道である。つまりこの人は「供養は愛情である」ということだけを言っていればなるほどと思う、でもそのあと読んだら墓について脅しのようなことを書き墓の相談にのり金をとる、これは墓商売になるのだ。宗教にはそういうのが多すぎるのだ。だから何であれ宗教で金をとるのは信じられないのである。供養は愛情だというときまさに愛情をもつなら先祖の祟りなどないはずである。墓をどうするにしろ愛情をもてないことが一番の問題であり墓相がどうのこうのと関係ないのである。

 
まあ、よくよく読んでみるとこのサイトは良心的だった、他のサイトにそうでないものがあった。
あまり祟りとか脅しを強調するのはたいがいカルト的だし脅して金をとるというのがある。
要するに人間には不可解なことがありそれが脅しとなり金儲けにもなる。
建築関係やモノ作りは簡単にごまかすことができない、結果として必ず現れる。
こでもこうした宗教関係や墓相などはいろいろ例があって公式化などできない
一つを例としてあてはまっていても全部あてはまるわけではない、つまりどうにでもこじつけられるものだから
困るのだ。

 


亡き人の面影やさしお盆かな

posted by 老鶯 at 22:06| Comment(0) | TrackBack(0) | 時事問題の深層
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