そして不思議なのは墓の歴史で墓の最初は個人墓であり家の墓ではなかったことである。江戸時代に作られた墓は個人の名前が記されている、・・・・家の墓ではないのだ。だから墓の起源は新しいものである。一家の墓となったのは明治時代以降だから新しいのである。墓を作ることは異端的なことであった。みんながしないことであり新しくはじめたことだった。その前には墓はないから村の共同の墓に埋葬されていた。それは今でもこの辺でホトケッポとかとして伝えられている。つまりそこには墓はないのだ。村の人が死んだらみんなそこに葬られ村の人みんなで供養したのである。だから先祖の祭りは村全体で行うことになる。個々の人を祭ることはなかったのである。個々の墓が作られて一家の墓へと進展した。それは古来の村社会への分離でありかえって共同性の分離となっていった。必然的に現代は墓が多すぎる、墓の過剰になっている。そして少子化やら家族の分離で墓を受け継ぐ人もなく無縁化する墓もふえてくる。墓を誰かに継承されないと存続できないのだ。それが個々の墓、個々の家の墓となると維持できないのだ。もし村の共同墓地のようなものだったら村の人が全員で供養するから跡継ぎがなくなることはないのだ。
墓とは何かというときこれもむずかしい、墓にはいろいろな意味がある。村の時代ならやはりその土地に根ざして暮らしているから死んだらその土地の土に還るとかなる。墓と土地との結びつきはかなり深いのだ。故郷は土地と結びつくが今は故郷に代々住み着く人もへった。東京で結婚した人はもう故郷に帰ってこない、墓も東京に作るとなる。なぜならお参りする息子娘には東京の近くがいいとなるからだ。 その結びつきは土地ではない、血縁である。だからまたその血縁が途絶えると墓は継続されにくくなるのだ。もし土地に村に祭られていれば村は絶えることがないから先祖として祭られことになり供養される。社会の急速な変化の中で死者への祭りも変化した。でもお盆には故郷に還り死者の先祖の供養をするというのは日本人ならではの風習の根強さにある
先祖をこれだけ重視するというとき中国の風習も入ってきた結果である。仏教とは関係なかったのである。日本では特別土地と結びついて生活してきた長い歴史がある。ほとんどの姓が地名に由来しているのは土地への村への従属が強いのが日本である。だから血縁より村で共同で暮らすことが重要でありそこから様々な祭りが生まれたのである。墓にも隣があり隣の墓も隣人であり墓地も一つの村としてありそこに埋葬されている全部を供養して個々の人や家の供養するのが祭りである。祭りとは個々を越えたところからはじまる共同性を追求したものである。その共同性は村での一体化した暮らしからはじまっていたから生きるときも共同の暮らしがなければ死んでもないのである。だからいくら都会の人が一年に一度お盆に帰ってきても共同性が生まれない、生活は分離してしまっているから現実問題として祭りの意義も失われてゆく、それでも生活がこれほど変わっても風習は根強く残っているのは人間の根源的なアイディティティを求めることが祭りにはあるからそうなる。
物には所有者が必要です。
仮に知人に頼んでその墓の所有者になって貰ったとしても、
その知人が亡くなった後は所有者の無い墓となり、無縁仏となるでしょう。
折口信夫-お盆について
http://www.kotono8.com/2008/08/16obon.html
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