満州に特急停まり夏燕
満州の村の淋しき馬車一つ帰りゆくかな夏の夕暮
日本海からウラジオストック→シベリア→満州の旅であったがこれも雄大なスケ−ルの旅立った。中国は前のように汽車が混んでいないし快適な旅ができるようになっている。三段のベットでなかもきれいである。乗務員が絶えず回り掃除しているし汚い中国とは違う。シベリア鉄道では便を垂れ流ししているから汚かった。ロシアとくらべると中国の方が進んでいるし発展しているから満州里にはロシア人が電気製品などを買いにきているのだ。店の看板もロシア語と中国語になっている。満州里は貿易で栄えているから木材の貿易商がトヨタをもっている金持ちだった。今や中国にはこうした金持ちがどこにでもいるのだろう。一億人が日本並になり金持ちになるとするとそれだけでもすごいとなる。ロシアとか中国は大きすぎてとらえどころがない国となる。その大きさに圧倒されるのである。
それにしてもトウモコシ畑が延々とつづくのにはあきあきした。車窓の風景も最初は遊牧民の草原があったがあとはトウモロコシ畑で見るべきものがなかった。変化がほとんどないのだ。この変化のなさうんざりしたのだ。そこに小さな村があり荷馬車が昔のままにのんびりと帰ってゆくのが見えた。北京までゆく家族も金持ちなのだろう。老人が日本人そっくりだったのが驚きである。漢人ではない、日本人の顔なのである。満州辺りからも日本に来たものがいた。アイヌは日本人と顔つきが違う、これはどこからきたのか意外と謎なのだ。これはもしかしたらヨ−ロッパ系統の人種がシベリア沿いにカラフトから北海道に流れついたともとれるかもしれない、日本人型ではないからだ。縄文人もアイヌとは違った顔つきをしていた。満州とかの人種とにた人たちだったかもしれない、縄文人とアイヌは別物ではないか?蝦夷というのがアイヌだという根拠はどこにもないのだ。むしろ満州の系統の人種に近いのが蝦夷だったのだ。ここがいつも混同しやすいのである。
阿倍引田臣比羅夫、粛慎(みせはしのくに)と戦ひて帰れり。
虜(とりこ)四十九人献(たてまつ)るといふ
大陸側に粛慎(みせはしのくに)があった。他にも蝦夷とは中国の異民族とだぶっていたのだ。中国でも異民族として蝦夷がいたし共通の異民族として蝦夷がいたのだ。だから朝廷の使いが唐に行ったときその異民族の蝦夷のことを聞いていたのである。
旅の思い出も限りないから書くことは尽きることがないかもしれない、記憶の糸をたぐりよせ編む作業をしている。旅は旅のあともつづいているのだ。だからどれだけ過去の記憶を蘇らせるかが問題になる。記憶が消えてしまいば書けないのである。旅はその記憶が宝だとなる。だから何かしら記憶に残るような旅を心がけないと旅の成果もなくなってしまうのだ。余りに急ぐ旅は記憶に残らないからあとで後悔することになるのだ。
ロシアでは満州のことをキタイと言っている。10世紀にはモンゴル高原から中国の北方にかけて複合的な大帝国を建国し、中華世界向けの国号を遼と号した契丹のことである。ロシア人がキタイと未だに言っていることは驚きである。この辺の歴史は余りにもスケ−ルが大きすぎてピンとこないのだ。中国自体の歴史も大きすぎて日本人的感覚ではとらえようがない世界だったのだ。
2007年01月17日
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