2006年01月29日

白鳥(認知症と地域)


白鳥に餌をやるかな近隣に見離され悲し認知症の人

認知症になると回りから嫌われる。そもそも認知症は家庭に存在させること自体とんでなく大変なことなのだ。付き切りでめんどうみるようになってしまう。なぜなら今したこと今言ったことを忘れてゆく、だから何か一貫してやることができなくなっている。自分が自分でやろうとするのだができなくなっている。それがいらいらとなり身近なものに当たるのである。それが普通でない、異常な行動となり当たってくるから耐えられなくなる。だから認知症とつきあうのはものすごく疲れるのだ。神経が消耗ししてしまう。

らい病というのも世間から隔離されたがこれは確かにひどいものだったが認知症はもっとひどい、なぜなら記憶とか意識が失われるのだから人間として成すべきことができなくなってしまうのだ。らい病患者は隔離されても畑を作ったりいろいろな作業もやっていたのである。認知症は日常のささいなことすらできなくなる。でも今は洗濯でもその他家事でもまだできる。何かできるということが認知症にとっては大事である。ああ、まだこんなことできるのだなと当たり前にやっていたことを感心しているのだ。ともかく社会の絆がたたれることは辛いことだろう。幼なじみとして80までつきあっていた人からもつきあいを断られたりすると悲しくなる。ただ保健婦とかやっていて精神病の人を世話していたのでそこでは受け入れるというのもわかる。らい病は確かに血縁から忌避されて血縁関係が絶たれたこともわかる。でも彼らは意識が正常であり意識は正常なものとして生活できたのである。だから隔離も容易だしその人たちだけで生活できたのである。ところが認知症の人は認知症の人だけでは絶対に生活できない、かなりの補佐人が必要となるしそれはものすごく大変な仕事になるのだ。

つまりこの病気は精神病とかそうしたものに理解あるものしか受け入れられないものなのだろう。だから社会からの絆が切られたり隔離されたりする。グル-プホ-ムを作るのにも近隣からいやがられ反対されるのだ。ところがこの病気は社会自体がそうして忌避するだけで隔離してすむものかというと数が多くなるとそうはいかない、施設でも収容しきれないし家族や地域でかかえこまざるをえなくなる。確かにそれは不可能なくらい大変なことである。でもこの病気自体は他人に大きな危害を加えることはない、暴力的なことは外部にはない、家庭では幻覚で苦しみ多少暴力的になるが危険な状態にはなかなかならない、歯止めがまだきく、認知症はまだ謎の病気であり全体が狂気に犯されるのとも違う、正常な感覚の部分がかなりあるのだ。だからその時は普通の人間同じようにつきあえるし外部の人でも一見わからないようにつきあえるのである。
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