2009年07月12日

夏の蝶(死んでも存在感ある人)

 
異なれる紋様交じる夏の蝶

涼しさや苔に水やる勤めかな

我が家に姉のなきしも大きなる働きなして家見守りぬ


蝶がふえてきたようだ。ヒオドシ蝶だろう。あれは平地でも結構みかける。二羽ほどいた。他にも蝶がふえていた。庭の苔に水をやるのが勤めとなる。なぜなら苔は水分相当必要なのだ。
庭の管理は結構手間かかるのだ。だからこのくらい狭い方がいいとなる。大きな庭だと一人では管理しきれなくなる。

 
姉が死んでまだ一周忌もまじかであり新盆である。姉は我が家ではなくてはならない人だった。だからその影響は死んでも大きかった。死後もやはりそういう人は存在感をもちつづける。ただその存在感は家に限定されるしすべてがたたえられるべきではない、家といっても家族といってもそもそも家族だけで社会は成り立たない、社会があって家族が成り立つのだ。家建てるにしても家を建てたのは家族ではない、大工さんであり外の人の労力があったからだ。だから家だけに重点をおくことはできない、ただ家に貢献しない迷惑だったという人もいるから我が家には貢献した功績があった人だと言っているだけである。
 
この家を例えば国とすると「我が国に・・・なきしも大きなる働きなして国見守りぬ」・・となる。これは靖国神社の英霊だとかなる。そうならないから問題は解決しないのである。全部は肯定できないからである。死んでも存在感を持ちつづける人は家に限定されても死んでからも満足しているかもしれない、死んでから全く忘れ去れる人も多いからである。自分の家は複雑であれ一人が死んでみてその意味が価値がわかることがある。なかなか人間の価値は生きているうち身内でもわかりにくいのだ。当たり前と思っているから空気のようになっているからわかりにくいのだ。いづれにしろもう一人ももう余命は尽きようとしているしまた介護になりあわただしくなるかもしれない、でも今度は前よりは楽なような気がする。一度経験したから段取りもわかっているしあわてずにすむかもしれない、あとは頼るのはお手伝いさんとかでも十分かもしれないしそれしか今やない、自宅介護になるとやっかいだが病院に入ると楽なのである。いづれにしろ我が家の災難はまだつづいているのだ。
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