2009年07月07日

庭師の労働から考える労働の対価とは

 
庭師の労働から考える労働の対価とは
 
●庭師へのもてなし
 
まだ庭作りがつづいている。今度は水場が必要になった。そしたらまた何日かつづく、でもそこを作らないとつながりがなくなる。全体の庭として完成するには水場を作らねばならない、毎日おやつの時間があるのでそれを自分が担当しているので結構疲れる。もてなすのは自分なのである。何かするたびに話もしている。庭師はここをこうしたらいいとか提案してくる。そうだなとそれもいいだろうとか絶えず打ち合わせも必要になる。こんなにして何か作ってゆくことはなかった。もちろん話があうというか相手が話しやすい、話を合わせやすい人だったからもある。大工さんとかでも今まで話したことなどほとんどない、作られたものを利用しているだけだった。もちろん大工さんを接待などしたこともない、今度は毎日もてなしの役を自分がやっている。それも疲れる。でも庭師の人に四六時中くいているともっと大変だと自覚させられる。百キロ以上の石を車から下ろして立てたときこれは力が入った。あれだけの石を動かす力は並の力ではできない、だからその労働が大変な労力だと身近で自覚させられる。俺はこれだけの労働をしているんだよと見せつけられている。その他でも毎日じかに労働している現場にいてついているのだからその労働は例えばバナナが地球の裏側から運ばれて買って食べているのとは違う、バナナを炎天下てとるのも大変だったとあるがその労働のことは実感しえない、その苦労は実感しえないが恩恵に欲している。 その人をもてなすということは労働の対価としている。ごくろうさんということでしている。そういうふうにもてなされれば報われたとなる。家に入ってくるリホ-ムとかヘルパ-とかは相手と直接接するから人がもてなしもてなされることになるからわかりやすい、他はただモノが流れてくる、そのモノがどうして作られてきたののかその過程もわからないし商品は人間の労働を離れて物神化するとかマルクスのモノによる疎外論になる。確かに世界がグロ-バル化したからといって労働の対価は正当でなく不公平が助長されたのである。
 
●労働の対価として不公平な金
 
金で買うということは何か労働の対価を払っているという感覚がない、何の苦労もせずそこにあるから金があるから買うという感覚である。別にそんなに苦労してここにあるのかということを思わない、私自身も一番辛い労働の経験は冷凍庫の中で働いたことである。零下20度にもなりあれをつづけていたら体を壊す、しかしそういう労働があってアイスクリ-ムでも冷凍食品も食えるとなる。その労働を自覚している人はいないのだ。そういう辛い人間の労働の結果として商品があることを自覚できないのである。働く-ハタラク-端を楽にするということは誰かが苦しい労働をしているから楽にしたいが働くになった。庭作りでも一人で大変だと思い補助をしている。一人では大変だから楽にさせたいからそうなるし一人だけではできない面があるからそうなる。働く人に直接に接していればそうなるのだ。
 
労働の対価として貨幣がある、みんな労働の対価として金を求めている。これだけの苦しい労働しているのだから一日2万くれともなる。金を労働の正当な対価として求める。でも金は労働の対価としては公平ではない、金自体が不可解なものなのだ。金はどんなに苦労した人でもその分多く入るということはない、全然労働しない人でも金は入る、親が金持ちなら遺産が入ったりすると働かなくても金があるから働く必要がないのだ。自分にしても金がたいしたものでもないにしてもコンビニとかで時間給700円とかで働く気がない、一応今のところ金があるから働く必要がないし今までもそうだった。なぜ働かないのか、働くことを強要されなかった。だから自分の好きなことを追求した。それが旅であった。「働かざるもの食うべからず」というけどすべての労働に価値があるわけではない、例えばパチンコ屋で働けば時給も高いとかなるがそこで働くことに意味があるかとなると疑問である。そこは賭博と遊びの場である。そこで働いて金になっても社会的には本当は有益なことはしていない、パチンコ屋を仕事するものとして尊敬する人はいないいだろう。でも金は他の人より数倍ももうけているのだ。金とはこうしていたるところに不公平なものとしてある。正当な労働の対価として機能していないのである。その象徴がアメリカの暴利をむさぼった証券マンにあった。とてもそれが正当な労働の対価ではない、世界的な詐欺として莫大な利益をあげていた。金はそうして世界的にも不公平なものとしてある。
 
●人は金だけではない、自分のwork(作品)を認めてもらいたい
 
なぜ人が働くかとなると金のためだというのが普通である。しかし金のためにだけ働いている人はいない、金で買えるもののために働いている。車が欲しい、家が欲しいとなれば金が必要である。でも車欲しいとなれば車を作っている人がいてその労働を買っているのだ。家が欲しいとなれば家を作る人の労働を買っている。その媒介として金がある。金がほしいのはそうしたモノが欲しいことや他に金でしてくれるもの助けてくれるから金のために働くとなる。でも金になるためには簡単に金にならない場合と簡単に金が入る場合もある。時給700円くらいで働いていては金はたまらない、ところが遺産などになると簡単に労働もせず莫大な金が入ってくることがある。株でもうけるというのもそうであった。金は労働の対価としては不公平なものである。だからなぜあの人が高い賃金でこっちこんなに苦労しているのに賃金が安いのかと絶えず不満が社会には渦巻いている。庭師の労働でも大工の賃金の方が高いと不満を言ったりなぜ医者は賃金が高いのかとか言えば医者はそれだけ命かけで労働しているとか反論される。また介護士は労働の割りには安月給なのだやっていけないとかつまり金だけで労働の価値が計れないことに常に不満があるのだ。労働の賃金がどうして決まるのかは不可解だからである。
 
労働が今回のように直接的だと一個人に向けての労働だとなるとわかりやすい、壁塗るにも手が痛くなるとかいろいろ労働の苦労が直接的なものとして訴えてくる。それだけではない、庭師は自分の作ったものを認めてもらいたいことがわかった。自分のwork(作品)を認めてもらいたいのである。私は価値ある仕事をした、work(作品)をしたことを認めてもらいたい、それは金としてではなく庭を作ってあげた人に認めてもらいたいのである。だから絶えず自分の庭のでき具合を訪ねるからいい庭だすばらしいと何度も言っているし認めている。おせじではない、一応石などに前から興味をもっていたし本当にそう思うからwork(作品)を認めている。それならもっと賃金を高くしてもらってもいいのではないかともなる。金の問題もそこにあるのだがやはり職人は自分のwork(作品)を認めてもらいたい、そういう要求が強いから芸術家とにていた。芸術家も作品の価値を認めてもらいたいのである。金をもらわなくても自分の芸術を理解する人がいれば幸せだとなる。それも何度も言うから認めているしここからもてなし役にもなっている。それでこうした直接的労働だとそういう点では償われることが多いかもしれない、地球の裏側で苦労して働いた産物を送っても金をもらっても何か報われないというのが現代の労働だからである。
 
君がため 手力疲れ 織りたる衣ぞ 春さらば いかなる色に 摺りてば良けむ  

君がため、浮沼(うきぬ)の池の、菱(ひし)むと、我が染めし袖濡れにけるかも

月草に衣そ染むる君がため 斑 ( まだら ) の衣摺らむと思ひて
 
君がため 手力疲れ 織りたる衣ぞ・・・・大石を渾身の力で動かす、壁をぬる、手力疲れになる。春になったらこんどはどんな色に染めれば満足してくれるのだ、ここに石を置き木を植え花を植えこの次はどうすればあなたは満足してくれるのだ・・・・君がための労働になっていたのが古代である。労働は目に見えて直接的であるからこそわかりやすい、そうなれば相手もその労働に答えねばならないと目に見えてわかりやすいのである。


 

posted by 老鶯 at 22:24| Comment(0) | TrackBack(0) | 経済社会労働問題
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