無情の旅路 (山頭火の苛烈な旅)
誰かもてなすや
洞に寝て跡なく去りぬ
風のごと過ぎされり
乞食(ホイト)と呼ばれ
邪険に門前払い
灼熱の日ざしのなか
水を求め乞い歩く
人の世の非情よ
身を焼く炎天下
何故の旅か果てなし
無情の旅路はつづく
鉄鉢に霰
天も無情、熾烈な旅路
何故の旅や
時に吐き出す自由律の俳句
それは紙にあらず
むき出しの大地に記されている
血肉となり刻印されている
彼に人のもてなしはなし
ただ苛烈な非情、無情の旅
彼はなお死出の旅路や
この世からあの世へ
漂流しつづけている
時に雷鳴のごとく来たり
忽然として去ってゆく
雲となり風となり消える
とらえがたきもの
風雲の旅人はなお旅している
もてなしのことを書いたけど放浪の旅人をもてなすような人はいない、世の中からはずれた人だからそんな人をもてなすということはない、社会お範疇からはずれた人だからである。ただ一期一会で何かしらもてなすとしたら一回切り会わないのだから何かその時もてなしても自分も忘れている。旅人をもてなしてももてなした人も一回しかあわないとしたら何かもてなしたという意識がもてない、その時無償のもてなしとなっている効用はある。 日常的にもてなしていたらどうしてももてなしているという意識がでてしまうのである。無心にもてなすのではなく押しつけがましくもなるのだ。相手ももてなされたことを意識する。そうなるともてなされる方も心苦しくなる。
山頭火のような旅人は今どきいない、山頭火は旅人より冒険者の部類に入る人だった。なぜならその旅があまりにも苛烈だったからである。未踏の領域を発見するような冒険者であり俳句にこだわったが俳句は俳句にならない俳句だった。あれだけ過酷だともはや客観的鑑賞をする余裕がないのだ。腹がへる、おにぎり食いたい、炎天下に喉がからからだ、水がのみたいとか、それをそのまま書いても俳句にはならない、芸術にはならない、苦しい病気になっても苦しい苦しいと絶句しているときなかなか俳句になりにくい、芸術には客観視できなければできない、自分を客観的に見ることはまだ余裕がある時である。確かに子規は肺病でも苦しくてもその呻吟のなかから俳句や短歌を作り出した。客観視する余裕がなおあった。でもそれは家にいて周りの支援があったからできた。芸術の効用は自らを客観視することである。啄木も肺病で瀕死の状態になるまで短歌を書いたがその一握の砂でも自らを客観視できたことは救いだったのだ。もし単に苦しい苦しい悲しい悲しいと絶句していたら俳句にも短歌にもならない、最後まで客観視することが芸術を生む。ゴッホにしても強烈な天才的激情の人でも絵を描くことは客観視することである。対象を客観視できたから絵画という芸術を残した。もし単に狂気の人だったら芸術は残せない、本当の精神病の人は芸術は残していない、それは世界を自分を客観視できないからである。
山頭火の俳句は余りにも苛烈なる故に客観視できない、うめきとかあえぎとかでありそれは芸術ではない、冒険者だったら苦しみの末に未踏の地を征服したで後世の歴史に残った。でもその人は芸術家ではない、冒険者である。西行とか芭蕉、蕪村にしても旅人でも芸術家なのである。客観視して作品を残している。それは山頭火のような支離滅裂的なものになっていない、彼らの旅がどういうものであれ客観視した作品が残されそれを後の世の人は鑑賞しているのだ。あまりに苦しかったから鑑賞ということもできない、自分も旅したけど旅していると自転車でも歩きでも登山でもあまりに苦しかったら客観的に見ていられないからいい作品が作れない、特に登山は苦しいから山頂に上った時、疲れ切って周りをゆっくり見る余裕さえなくなる。そういうことが激しい運動だとそうなる。運動に重点を置けば別にかまわないが芸術家は創作と鑑賞を要求される、作品を残す必要があるのだ。もちろん冒険とか生活に重点を置くなら上野 霄里 氏のように冒険家タイプの生活こそ第一だとなる。そのあとに芸術もありうるとなる。その山頭火さえ批判しているのも理解できない、社会から離脱した人間となると実際は普通の人は理解外の人となる。彼自身もそこまでは生きていない、山頭火は冒険家と芸術家とを生きた。どちらかというと冒険家になっていた。山頭火をたどるとこちらまで肉体的に苦しくなる。作品を鑑賞するより腹がへるとか喉が渇くとか坂を上るとかそうした喘ぎが聞こえてくる。そして作品を冷静に鑑賞するよりも肉体的なものとして力が入ってくるのだ。それはスポ-ツを鑑賞するのとにているのだ。思わず筋肉に力が入り応援するのとにているのだ。芸術を鑑賞するのとは違ってくる。どんな旅でも旅しているときは客観視することがむずかしくなる。だからかえって旅を終わったあとで回想したとき客観的に余裕をもって見れるから紀行文などは書きやすいのである。だから今旅を回想して書いている。
そもそも山頭火が江戸時代の旅人より苛烈な旅をした。野宿する旅を延々とつづけられたのはやはり体力があったのだろう。江戸時代すら宿に泊まる旅だった。自分も自転車の旅をしたがそれは体力ある人なら簡単にできることだった。自分には苦しい旅となっていた。旅人スポ-ツは違う、テレビでやっていたように百キロとか走る必要はない、坂も上る必要はない、旅なら別に一日五〇キロでもいいのだ。なぜなら周りもゆっくり鑑賞するにはそんなに目的地を目指して走る必要がないの多。思うに現代ではスポ-ツとして移動する人はいるが旅人が喪失した時代なのだ。また旅ができない環境にもなっている。もてなしされるホテルなど旅人にはあわない、ビジネスホテルでも五千円とかなると高すぎるのだ。そして日本には旅をつづけるための安宿がないのだ。山頭火の時代はまだ木賃宿などがあったから旅人としてありえたのである。
旅館など今は贅沢なのが多すぎて安宿はない、そういう場所はもてなしの場、保養の場としてはいいが旅人には不向きなのである。現実はほとんどの宿は保養の宿であり旅人の宿はほとんどないのである。
だから旅人はこの世から消えた。わずかに四国の遍路などは旅人の名残りを見ることができるだけである。
野宿して苛烈な旅や夏あざみ